『日本の「アジール」を訪ねて』2

<『日本の「アジール」を訪ねて』2>
図書館に予約していた『日本の「アジール」を訪ねて』という本を、待つこと約4ヶ月でゲットしたのです。
この本は日本の底辺をめぐって綴った民俗学的フィールドワークであり、大使のツボがうずくわけでおます♪


【日本の「アジール」を訪ねて】
アジール

筒井功著、河出書房新社、2016年刊

<「BOOK」データベース>より
どこに住み、暮らしたのか。戦後まだ、いたるところで、乞食、サンカ、病者、芸能民、被差別民などの漂泊放浪民が移動生活をおこなっていた。かれらが、社会制度をはなれ、生活のよすがとした洞窟などの拠点「アジール」を全国に訪ね、その暮らしの実態を追うノンフィクション。もうひとつの戦後昭和史の貴重な記録。
【目次】
第1章 サンカとハンセン病者がいた谷間/第2章 土窟から上る煙/第3章 大都市わきの乞食村/第4章 カッタイ道は実在したか/第5章 洞窟を住みかとして/第6章 有籍の民、無籍の民/第7章 川に生きる/第8章 地名に残る非定住民の歴史

<読む前の大使寸評>
この本は日本の底辺をめぐって綴った民俗学的フィールドワークであり・・・・
大使のツボがうずくわけでおます♪

<図書館予約:(1/25予約済み、6/04受取)>

heibonsha日本の「アジール」を訪ねて


「ミツクリ」という地名を、見てみましょう。
p193~197
<箕作谷の蓑作り職人>
 「ミツクリ」という地名は、東北から九州まで全国的に分布している。文字は箕作が半分ほどを占めるが、箕造、御作、見作、ミツクリなどもある。その数は、わたしがこれまでに気づいただけで20数ヶ所、高知県にかぎっても7ヵ所もある。高知県が目立っているように見えるのは、わたしがここの出身で県内を歩く機会と資料に目を通すことが、ほかより多いためにすぎない。
 
 静岡県下田市箕作は右の例の一つで、ここでは第二次大戦後まで箕の製造・販売が重要な産業になっていた。その事実と地名とから考えて、ここの地名は箕作りを生業とする集団の定住によって付いた可能性がきわめて高い。これほどはっきりしいていなくても、同様の例はほかにも少なくない。その一端については、拙著『漂泊の民サンカを追って』(2005年、現代書館)に記しておいた。

 高知県土佐清水市以布利は県の南西端、足摺岬の東側の付け根に位置する、もとは漁業を主とした小さな町である。ここにもミツクリ地名があり、角川書店『日本地名大辞典』高知県の部の巻末掲載の「小字一覧」では、「箕作」として見えている。ところが、この北隣、同市大岐にも「ミツクリ」がある。
 二つは実は同じ場所を指している。ちょうど以布利と大岐の境界に当たるため、両方の小字に採用されたのである。似たような例は、境界の地名では珍しくない。以下では箕作と表記していきたい。

 箕作は国道321号の峠付近の地名である。峠といっても、たいしたものではなく、標高はわずか25メートルほどにすぎない。南北どちらから登っていっても、直線に近いゆるやかな登りのあと、またゆるやかに下っていくのである。もとは県道であって、もう少し蛇行していた。

 峠のあたりに、いま私立幡陽小学校が建っている。小学校のすぐ南側が箕作であり、そこを西から東へ向かって流れる小渓流が箕作谷である。国道西側の山地だと、箕作山になる。これらの地名の成立は非常に古い。

 土佐国に伝存していた中世文書の資料集『土佐国ト簡集』(1725年ごろの成立)所収の正嘉2年(1258)10月に発給された一条実経の「前摂政家政所下文」に「浦国名壱町 字以布里 北限 箕作谷」とある。たまたま残った、この鎌倉時代の資料によって、以布里(以布利)の北端に13世紀半ば、すでに「蓑作谷」の地名があったことがわかる。成立がこれほど古くまでさかのぼれるミツクリ地名を、わたしはほかには確認していない。ちなみに、先に挙げた静岡県下田市箕作の資料上の初出は、これより300年ほどのちの戦国時代である。

 ともあれ、いまから800年ちかくも前、以布利と大岐の境にミツクリの地名ができていた。そうして興味ぶかいことに、ここには20世紀になっても箕作りを業とする一家が粗末な小屋を建てて住んでいたのである。

 峠をはさんだ1キロほどのあいだには、昔は普通の民家は一軒もなかった。平成18年、わたしが何度かここを訪ねた当時でも、以布利からの移住者の家が峠近くに一軒あるきりであった。峠南麓の以布利字上駄場の民宿経営、畠中稔博さんによると、箕作谷には地蔵谷の通称をもつ、ささやかな支流があり、畠中さんが知っている人が二人も、そこで首を吊って自殺したという。蓑作あたりは、そんな「陰惨な感じ」のところで、いつとも知れないころからの辺界だったようである。

 畠中さんは昭和6年の1月生まれだあら、同12年に幡陽小学校へ入学した。学校の南隣の旧道わきに、草葺きの小屋一軒とトタン葺きの小屋一軒が並んで建っていた。二軒は地蔵谷と箕作谷との合流点の数十メートル上で、地蔵谷に面していた。

 草葺きの小屋には、箕職人が暮らしいていた。四国の箕は、すべて竹のみを用いて作る竹箕であり、したがって竹細工の一種である。当然、職人は籠や〇も作っていた。職人には子供が少なくとも二人あった。もっと多かったかもしれないが、畠中さんに確認できたのは兄と妹だけである。母親を見た記憶はない。妹は畠中さんの下の姉と小学校の同級生だったから、大正14年(1925)の生まれだったと思われる。
(中略)
 
 トタン葺きの小屋には、K姓の一家が住んでいた。夫婦に子供が三人いた。どんな事情からか夫婦で四国巡礼中、畠中さん宅の隣に住みつき、のち峠へ移った。徳島県の出身らしく、以布利で暮らしているあいだに三人の子をもうけたという。
 
 二つの小屋があったのは昭和10年代の半ばごろ、すなわち1940年前後までであった。

 土佐清水市以布利・大岐境の蓑作谷の一帯は、何重もの意味で典型的な辺界あるいはアジール(避難場所)であった。それは少なくとも中世初期以来の一貫した、この土地の性格だったように思える。


『日本の「アジール」を訪ねて』1

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