『あとは切手を、一枚貼るだけ』2

<『あとは切手を、一枚貼るだけ』2>
図書館で小川洋子×堀江敏幸共作の『あとは切手を、一枚貼るだけ』という本を手にしたのです。
巻末を見ると、文芸誌に2017年7月~18年8月まで連載されたエッセイを単行本として構成したもののようです。
いわば出版社の企画の勝利というか、一粒で三度美味しいケースでんがな♪


【あとは切手を、一枚貼るだけ】
  

小川洋子×堀江敏幸著、中央公論新社、2019年刊

<「BOOK」データベース>より
かつて愛し合い、今は離ればなれに生きる「私」と「ぼく」。失われた日記、優しいじゃんけん、湖上の会話…そして二人を隔てた、取りかえしのつかない出来事。14通の手紙に編み込まれた哀しい秘密にどこであなたは気づくでしょうか。届くはずのない光を綴る、奇跡のような物語。

<読む前の大使寸評>
巻末を見ると、文芸誌に2017年7月~18年8月まで連載されたエッセイを単行本として構成したもののようです。
いわば出版社の企画の勝利というか、一粒で三度美味しいケースでんがな♪

rakutenあとは切手を、一枚貼るだけ


この本の冒頭あたり(一通め)を、見てみましょう。
p15~17
<一通め>
 まぶたを閉じている私に、それでも当然のように友人は新訳の小説を一冊置いて、アムステルダムへ帰ってゆきました。30年もあちらに暮らしている彼女ですが、今でも、しばらくこちらに戻っていると、みるみるオランダ語が下手になってゆくそうです。スーツケースに荷物を詰め、アムステルダムを発つ準備をはじめただけで早くも、オランダ語が揺らいでいることが分かる、と彼女は冗談めかして言いました。

 三十年かけ、努力して積み上げた言語より、一言も喋れない赤ん坊の時、訳も分からず勝手に耳に入ってきた母語の方が、ずっと強いという証拠でしょうか。少しでも油断すると、無敵の赤ん坊が積み木の塔を破壊しにやって来ます。

 口元にはふてぶてしい笑みが浮び、瞳はやる気満々に輝いています。「アー、ウー、アー、ウー」うなりながら、よだれや離乳食や汗でべとついた手を情け容赦なく振り回す赤ん坊のの前では、ぐらぐらする積み木などひとたまりもありません。何のためらいもなく崩れてしまいます。

 母語とオランダ語、二つの間に架かる、積み木のように華奢で危うげな橋を、一歩一歩慎重に、勇気を持って行き来している彼女に、私は心から尊敬の念を抱きます。異なる言語を往復するのは、どんなに広大な海を渡るよりも心細い旅でしょうから。

 母語に、母、という字が使われているのは、この心細さを少しでも和らげるためかもしれません。父、ではどうも収まりがようない気がします。積み木を崩す赤ん坊を抱き上げ、揺すってなだめるのは、やはり母の腕です。

 一文字しか字を知らない象の手紙について、私がこうして思いを巡らせることができるのは、勇気ある言葉の旅人のおかげです。そう言えば、人間の赤ん坊が指しゃぶりをするように、小象も鼻をしゃぶるのを知っていますか?

 考えてみれば、指であれ鼻であれ、自分の体の一部を口に入れないではいられない、というのは面白い習性です。人間は無意味なことをやる生きものですから、美味しいはずもない指をしゃぶるからと言って別に不思議ではありませんが、摂理に従って生きる利口な野生動物までもが、同じ仕草をするというのは、ちょっと意外です。

 あれは、自分で自分をこの世界に留めておくための抵抗なのでしょうか。自分がどこか知らない遠くにふわりと吸い込まれてしまわないよう、指と鼻を一生懸命に引っ張っている。そう考えれば、人間の指と象の鼻は、引っ張るのにうってつけの出っ張りと言えます。

 サバンナの水辺で休憩する、象の群れがいます。乾季、水を求めて歩き続けた彼らは極限まで疲れています。
(中略) 

 しかし、いくら小さすぎて大事なことをすぐに忘れてしまう小象でも、生まれて間もないものだけに授けられる、遠い暗闇から届く信号を受け取る力はちゃんと備えています。だからこそ、暗闇に吸い込まれないため、自分の体は今ここにあるのだという事実をかみしめるため、一生懸命鼻しゃぶりをしているのです。


(一通め)の続きを、見てみましょう。
p21~23
<一通め>
『アンネの日記』は、架空の友人キティーに宛てた手紙です。アムステルダムのポストには投函されないけれども、架空の世界でのみ許される方法で届けられた手紙。言うまでもなく、その方法とはエヴァンズの切手を貼ることです。

 小さい頃からなぜか、閉じ込められている人、閉じこもっている人、閉じ込める人に、強いこだわりを感じてきました。

 アンネ・フランク、ラプンチェル、『人間椅子』の家具職人、オペラ座の怪人、ジョゼフ・コーネル、『床下の小人たち』、ノートルダムの鐘つき男、ロベール・クートラス・・・。あるいは閉じられた四角い升目から永久に脱出できないチェスやオセロ、蓑虫、纏足、ホルマリン漬け、箱庭、ド-ルハウス、円筒状の海綿の中で生涯を送るドウケツエビ・・・。当然、切手という最小のサイズに一つの世界を閉じ込め、ピンキング鋏で周囲を封じた、ドナルド・エヴァンズも仲間です。

 彼らは独自の境界線の内側に潜んでいますが、孤立しているわけではありません。私の心の中にある湖に、各々ボートに乗って浮んでいます。縁に立てば、一目で輪郭をたどれる、池と見間違うほどの湖です。とは言え、ボートがぶつかり合うことなく自由に漂ってゆけるほどの広さは保たれています。波はなく、湖底は深く、水は薄緑色です。

 どんな水路ともつながっていない、ぽっかりと宙に浮んだような湖なのに、彼らどこからどうやって集まって来たのか、私にも分かりません。各自の事情に従い、無言のうちに、一艘、一艘、出現したのでしょう。新しい仲間が増える時にも、特別な歓迎はなく、興奮もなく、水面は穏やかなままです。

 大胆にオールを漕ぎ、優美な波紋を描きながら進んでゆくボートもあれば、入り組んだ岸辺に舳先を向け、ただじっとしているだけのボートもある。あるものはただ自然の流れに任せ、あるものは一点でひたすら回転している。時折、何かの拍子にはっとするほど接近する場合もありますが、声を交わしたりはしません。一瞬視線が交わっても、礼儀正しく目礼をするばかりです。

 岸辺に立ち、私はそんな彼らを眺めます。ボートからも、湖からも、彼らは決して出て行こうとはしませんから、安心です。彼らの沈黙を邪魔しないよう注意しながら、水面に響く微かな気配に耳を澄まします。
 いわば湖は私の友人たちを招き入れるための小部屋です。親しみを感じ合えるもろもろを図柄にした切手の収集帳です。あらゆる言葉を受けとめてくれる日記です。


『あとは切手を、一枚貼るだけ』1:『幸福の王子』

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