『暴力について』3

<『暴力について』3>
図書館に予約していた『暴力について』という本を、待つことおよそ1週間でゲットしたのです。



【暴力について】


ハナ・アーレント著、みすず書房、2000年刊

<「BOOK」データベース>より
ベトナム戦争、プラハの春、学生運動…1960年代後半から70年代初頭にかけて全世界的な広がりをみせた騒然たる動向を、著者は亡命の地・アメリカ合衆国でどのように考えていたか。「国防総省秘密報告書」を手がかりに嘘と現実(リアリティ)とのあり方を論じた「政治における嘘」、暴力と権力との相違をテーマにした「暴力について」、さらに「市民的不服従」など、本書は、情況への鋭い発言のかたちをとりながら、われわれとわれわれを取りまく世界への根本的な問いを投げかけている。「政治とは何か」をもっとも明快かつ具体的に論じた書ともいえよう。

<大使寸評>
改行なしで延々と続く長文にはかなり手こずるのだが、言っていることに間違いはないので我慢すべきなのか。

<図書館予約:(9/16予約、副本1、予約0)>

rakuten暴力について



「第3章 暴力について」で暴力の本質を、見てみましょう。
p163~166
<3>
 中央集権が政治上有利であるか不利であるかは別としても、その政治的結果は同一である。権力の独占は国内の本来の権力源を乾上らせるか、権力を流出させていまうかである。権力が分散し、その相互の抑制と均衡の上に成り立っている米国において、われわれが今直面しているのは、権力機構の崩壊のみならず、外見上は今でも損なわれておらず、自己を顕示することができるかのようであるが、実は力を失い効果的でなくなってしまった権力である。

 権力の無力ということばは、もはやしゃれた矛盾ではなくなってきた。既設の権力を試すための1968年のユージーン・マッカーシーの十字軍は、帝国主義的冒険に対する一般の反感を表面化させ、上院議員の中の反対勢力と街頭における反対運動を合流させ、少なくとも一時的には注目すべき政治上の変化をもたらした。

 そして若い反抗者の大半が既成の勢力を廃止するのではなく、それを再び機能できるようにするかと思われた最初のチャンスにとびついて、いかに簡単に疎外から戻ることができるかを示した。しかもなお、この力が政党の官僚制度によって押しつぶされたのであり、政党官僚制度は伝統に反し、党の有力者であって人気のない候補者を立てることにより、大統領選挙に負けることを選んだのである。

 権力の無能の不思議な矛盾を示す例は他にもある。科学においてチーム・ワークが非常に効果的であるために(これは近代科学に対するアメリカの特筆すべき貢献であるが)われわれは月旅行を週末の旅行よりも危険性の少ないものにするところの精密さをもって、この上なく複雑な過程をコントロールできる。

 しかし「世界最強国」とみなされていながら、米国は世界最小国の一つにおいて、関係者すべてにとって明らかに悲惨な戦争を中止させることに関して無力である。あたかもわれわれはの魔法にかけられて、できることをする能力を失うという条件で、できないことができるようになるのに似ている。

 もしも権力が、たんに「われわれにできる」ことではなくて、「われわれはそれをしようと思い、することができる」ことと何らかのかかわり合いがあるとすれば、われわれの権力は無力になってしまったことを認めざるを得ない。科学の進歩は「私はする」という意志とは無関係である。

 科学の進歩はそれ独自の冷酷な法則にしたがっていくのであって、結果の如何にかかわらず、われわれにできることを無理にも実行させる。「私はする」と「私にはできる」とは分裂してしったのであろうか。50年前にヴァレリーが言ったこと(「われわれの知るすべてのこと、すなわち、われわれにできるすべてのことは、われわれの本性に背くものとなってしまったと言うことができる」)は正しかったのであろうか。

 これらの発展がどこに行き着くのかはわからない。しかし権力の弱化は暴力への公然の誘いであることを知っている・・・知っているべきである。政府であれ、国民であれ、権力を持っていて、その権力が自分の手中からすべり落ちていくのを感じるものは、昔から、権力の代わりに暴力を用いたくなる誘惑に打ち勝つのが困難であった、ということからも言えるのである。


『暴力について』2:アメリカの戦略
『暴力について』1:この本の噛み心地

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