内田先生かく語りき(その27)

<内田先生かく語りき(その27)>
「内田樹の研究室」の内田先生が日々つづる言葉のなかで、自分にヒットするお言葉をホームページに残しておきます。
内田

最近は池田香代子さんや、関さんや、雨宮さんなどの言葉も取り入れています。
(池田香代子さんは☆で、関さんは△で、雨宮さんは○で、池田信夫さんは▲、高野さんは■で、金子先生は★、田原さんは#、湯浅さんは〇、印鑰さんは@、櫻井さんは*、西加奈子さんは♪で区別します)

・文化日報への寄稿「パンデミックとその後の世界」
・反知性主義者たちの肖像
・『沈黙する知性』韓国語版序文
・書評・食いつめものブルース 山田泰司
・書評・白井聡「武器としての「資本論」
・『街場の親子論』のためのまえがき
・パンデミックをめぐるインタビュー
・ホ・ヨンソン『海女たち』書評
・2020年度寺子屋ゼミ受講要項
・『山本太郎から見える日本』から
・『人口減社会の未来学』から
・「サル化する世界」についてのインタビュー
・映画『Workers被災地に起つ』神戸・元町映画館でのアフタートーク
・週刊金曜日インタビュー
・桜を見る会再論
・『Give democracy a chance』2
・『Give democracy a chance』1
・沈黙する知性
・China Scare
・[週刊ポスト」問題について
・『低移民率を誇る「トランピアンの極楽」日本の瀕死』
・『ネット右翼とは何か』書評
・『最終講義』韓国語版あとがき
・『「そのうちなんとかなるだろう」あとがき』
・『参院選にあたって』
・『廃仏毀釈について』
・『論理は跳躍する』
・『「おじさん」的思考』韓国語版序文
・『市民講座』韓国語版のための序文
・空虚感を抱えたイエスマン
・大阪万博という幻想
・外国語学習について
・大学院の変容・貧乏シフト
・『知日』明治維新特集のアンケートへの回答
・カジノについて
・中国の若者たちよ、マルクスを読もう
・『街場の憂国論』文庫版のためのあとがき
・直言3月号「韓国の教育と日本のメディア」
・人口減社会に向けて
・時間意識と知性
・Madness of the King
・吉本隆明1967
・大学教育は生き延びられるのか?
・こちらは「サンデー毎日」没原稿
・奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り
・米朝戦争のあと(2件)
・気まずい共存について

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内田先生かく語りき8目次

(目次全文はここ)

(その27):『文化日報への寄稿「パンデミックとその後の世界」』を追記



文化日報への寄稿「パンデミックとその後の世界」より
 コロナ・パンデミックで私たちのシステムのどこが脆弱であるかはかなり鮮やかに可視化された。今回分かったことの一つは(あまり指摘する人がいないが)アメリカの世界戦略に大きな「穴」があったということである。

 日本で最初に大規模なクラスターが発生したのはクルーズ船だったが、米海軍の空母セオドア・ルーズベルト号も3月太平洋航行中に100人を超える感染者を出して、患者の艦外退避のために作戦行動変更に追い込まれた。

 ここから知れるように、艦船は感染症にきわめて弱い。同時に、軍隊という組織も、その性質上、閉鎖空間に、斉一的な行動を取る大量の人間が集住することを余儀なくされるわけであるから、感染症にきわめて弱い。つまり、「艦船」と「軍隊」は感染症に弱いのである。潜水艦は空母よりさらに感染症に弱い。

 乗員に許された空間の狭さと換気の悪さは空母の比ではないからである。ということは、軍事的緊張のある地域に空母を派遣して、それを母艦にして戦闘機やヘリを飛ばして制海権・制空権を抑え、潜水艦からミサイルを撃ち込むという伝統的なアメリカの海外派兵スキームがしばらくは使えなくなったということを意味している。

「感染者が出て、どの艦船がいつ使用不能になるかわからない」というような条件下で作戦行動を立案実施することは難しい。米国防総省のスタッフは今ごろ頭を抱えていることだろう。それゆえ、これまでアメリカがアフガニスタンやイラクでやってきたような通常兵器による軍事行動については抑制的になるという予測が立つ。たぶんこの予測は当たると思うけれども、予測が当たった場合には「何も起こらない」ので、私の予測の当否を事後的に検証することはできない。

 狭いところに人を押し込めるのがダメ、人々が斉一的な行動を取るのがダメということになると、自動的に都市生活がダメということになる。

 都市生活というのは、要するに生活のリズムが一致し、行動が斉一的な人々が密集して暮らすということである。そういう環境が感染症の拡大にとっては最もつごうがよい。となると、私たち個人の生活レベルで「感染症に対して抑制的な生き方」はどういうものかが論理的に決まってくる。それは他の人々と生活のリズムをずらし、斉一的な行動を取らず、他の人と離れて暮らすということである。

 



『反知性主義者たちの肖像』より
 反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。

 というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。正解をすでに知っている以上、彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺らがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。

「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。彼らは「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と私たちに告げる。そして、そのような言葉は確実に「呪い」として機能し始める。というのは、そういうことを耳元でうるさく言われているうちに、こちらの生きる力がしだいに衰弱してくるからである。

「あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、それは理非の判定に関与しない」ということは、「あなたには生きている理由がない」と言われているに等しいからである。 私は私をそのような気分にさせる人間のことを「反知性的」と見なすことにしている。
 その人自身は自分のことを「知性的」であると思っているかも知れない。たぶん、思っているだろう。知識も豊かだし、自信たっぷりに語るし、反論されても少しも動じない。でも、やはり私は彼を「知性的」とは呼ばない。それは彼が知性を属人的な資質や能力だと思っているからである。だが、私はそれとは違う考え方をする。

 知性というのは個人においてではなく、集団として発動するものだと私は思っている。知性は「集合的叡智」として働くのでなければ何の意味もない。単独で存立し得るようなものを私は知性と呼ばない。




(以降、全文は内田先生かく語りき(その25)による)

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