『漱石のパリ日記』2

<『漱石のパリ日記』2>
図書館で『漱石のパリ日記』という本を、手にしたのです。
夏目漱石といえば、ロンドン修業で苦労した作家という認識である。
その漱石さんがパリ万博を見に行ったそうで、興味深いのでおます。♪


【漱石のパリ日記】


山本順二著、筑摩書房、2014年刊

<「BOOK」データベース>より
百年以上前のパリ万博の年、国民的作家になる前の漱石は、花の都で誰に会い、何を見たか。当時のパリの街の様子や雰囲気を再現する。

<読む前の大使寸評>
夏目漱石といえば、ロンドン修業で苦労した作家という認識である。
その漱石さんがパリ万博を見に行ったそうで、興味深いのでおます。♪

rakuten漱石のパリ日記



漱石の見たパリ万博はどんなだったか、続きを・・・見てみましょう。
p63~66
<10月23日(火)> 
 漱石たちのこの朝の起床は遅かったはずだ。前日は万国博見物の後、渡辺薫之介宅で夕食をとり、さらに繁華街に繰り出して宿に帰ったのは午前一時だった。それでも、再び夜の街に出る元気があったのは、漱石もその仲間も真面目に勉強を続けてきた学問の徒ではあっても、まだ三十代の血気盛んな年頃だったからだろう。

 この日朝、教育学者の樋口勘次郎が宿に訪ねて来た。樋口は東京高等師範学校を卒業後、同校付属小学校の教諭でありながら三年間の予定でヨーロッパに留学していた。
(中略)

 漱石にとってパリの中で最も慣れ親しんだ一角だと思われるので、当時と現在の様子を比較しながら少し観察してみよう。
 漱石が目にしたパリの歴史的、公共的な建造物の多くが現存している中で、大きな建物でその姿が一変している代表例がこのトロカデロだろうう。

 当時は広場の南側に、二つの塔に挟まれた丸い大屋根が目につくトロカデロ宮がそびえていた。1878年のパリでの三回目の万国博の時に建てられたものだが、大ホールの音響に欠陥があったといい、約60年後の1937年の万国博の際に現在のシャイヨ宮に建て替えられた。

 往時のトロカデロ宮は堂々としていて現在のシャイヨ宮よりも格段に存在感があったようだ。その前面のトロカデロ広場の中央には、今では大きな騎馬像が建っている。銅像の主は第一次世界大戦の英雄・フォッシュ元帥だ。フランスなど連合国が1918年11月11日、ドイツに勝利し休戦条約を結んだのを記念して1951年に建てられた。これに因んで広場の公式名称は「トロカデロ11月11日広場」という。

 漱石がパリに滞在したのは、第一次大戦よりはるかに前のことだから、もちろん騎馬像はなかった。1900年以前の写真を見ると広場は緑地になっていて中央に八角屋根の野外音楽堂があったようだが、万国博開催中はマダガスカル館が広場を占めていた。フランスの植民地・保護領のパビリオンのうちでも豪華さでは一、二を競う直径55メートルもある円形の大建築だったから、トロカデロ宮とともに周囲を威圧し、現在では想像できない景観だった。

 西に隣接するパッシー墓地は当時と変わらないようで、広場に面して東側に並んでいる数軒のカフェも古そうだ。漱石たちはあるいはそのうちの一軒で昼食をとったのかもしれない。この地域は当時も今もちょっとした繁華街だから各種の飲食店がそろっていて、食事や休憩には便利な土地柄だった。

 この年、パリを訪れていた小説家で東京・博文館支配人の大橋又太郎(乙羽)は、5月28日に近くの飲食店で食事をした時の印象を書き残している。「トロカデローの裏手にて昼餐をなしぬ。今日のは頗る至廉の料理屋に入りたれば食堂というも名ばかりの手狭なるに、割烹は細君自らがするのなれば、もどかしき限りなるに、肉も汁も皿に余るほど多くして、味はいと拙し」(『欧山米水』)と、量の多さに驚きその味をけなしている。


『漱石のパリ日記』1

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