『暴力について』1

<『暴力について』1>
図書館に予約していた『暴力について』という本を、待つことおよそ1週間でゲットしたのです。



【暴力について】


ハナ・アーレント著、みすず書房、2000年刊

<「BOOK」データベース>より
ベトナム戦争、プラハの春、学生運動…1960年代後半から70年代初頭にかけて全世界的な広がりをみせた騒然たる動向を、著者は亡命の地・アメリカ合衆国でどのように考えていたか。「国防総省秘密報告書」を手がかりに嘘と現実(リアリティ)とのあり方を論じた「政治における嘘」、暴力と権力との相違をテーマにした「暴力について」、さらに「市民的不服従」など、本書は、情況への鋭い発言のかたちをとりながら、われわれとわれわれを取りまく世界への根本的な問いを投げかけている。「政治とは何か」をもっとも明快かつ具体的に論じた書ともいえよう。

<大使寸評>
改行なしで延々と続く長文にはかなり手こずるのだが、言っていることに間違いはないので我慢すべきなのか。

<図書館予約:(9/16予約、副本1、予約0)>

rakuten暴力について



「第1章 政治における虚偽」でこの本の噛み心地を、見てみましょう。
p3~9
<1>
 四十七巻におよぶ『ベトナム戦争に関するアメリカの政策決定過程の歴史』(国防長官ロバート・S・マクナマラにより、1967年6月に委嘱され、1年6ヶ月後に完成したもの)は、第二次大戦から1986年に至るインドシナにおけるアメリカの役割に関する細かい証明のついたこの極秘文書が1971年6月にニューヨーク・タイムズ紙によって発表されて以来、ペンタゴン文書として知られるに至ったものであるが、それは読む人によって異なった意味を持ち、異なった教訓を与える。

 ベトナム戦争が冷戦あるいは反共イデオロギーの当然の帰結であることが、それによって初めてわかったという人もあれば、政策決定過程を知る絶好の資料であるとする人もある。しかし、大多数の読者は、秘密文書の提起する根本問題が欺瞞であるという点で、今日では意見が一致している。

 少なくとも、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載するためにこの文書を編集した人々の頭に、この点がまず第一にあったことは明白であり、また四十七巻の調査報告の執筆者たちにとっても、それが一つの問題点であったことは十分に考えられる。

 6年にわたる長い期間、我々が体験してきた、いわゆる政府の信憑性のギャップなるものが、突然に深い淵となってわれわれの前に現れたのである。あらゆる種類の偽りの声明(それは虚偽でもあり、自己欺瞞でもある)の流砂が、この資料を検討しようとする読者を吸い込んでしまうおそれがあるが、それが十年になんなんとする米国の対外および対内政策の基礎構造であったという事実を、読者は不幸にして認めざるをえないのである。

 政府最高首脳部が、あくまで虚偽を政策としようと決意していたために、また、それに付随して、ベトコン狩り部隊の発表するでたらめの死者数、空爆による敵の損害のでっちあげ報告書、自分で作成する報告書によって自分が評価されることを承知している下級将校たちによって、前線からワシントンに書き送られる「進捗」の報告書等々、文官武官を問わず、政府関係者全員にわたって虚偽が蔓延していたために、われわれは過去の歴史(それ自体けっして道徳的に完全ではないが)に照らして今回の事件を考え判断すべきであることを、ともすれば忘れがちである。

 外交においては、「慎重さ」と名づけ、あるいは「政府の神秘」と呼ぶところの秘密と欺瞞、すなわち、政治目的達成のための正当な手段として用いられる意識的なごまかしと明白な虚偽とは、有史以来継続してきたものである。正直が政治の美徳と考えられたためしはなく、虚偽は政治のかけひきにおいて常に正当化される道具と考えられてきた。

 これらの点を考えれば、われわれの哲学や政治思想の伝統において、行動の性格や思考・言葉の上で事実を否定する能力の重要性に、今日までほとんど注意が払われなかったのは不思議である。
(中略)

 要するに、嘘をつく能力、すなわち事実を意識的に否定することと、事実を変化させる能力、すなわち行動する能力とは、関連性があるのであって、それは想像力という共通の基盤によってはじめて存在しうるのである。だが、現に雨が降っているときに「太陽は輝く」と言うことが必ずしも可能であるときまっているわけではない。それは、感覚的にも、精神的にも、世の中に対処してゆける能力をわれわれは備えているけれども、われわれが世の中にとって不可欠の要素として固定され、あるいは嵌め込まれているものではないということを意味するのである。

 われわれはこの世界を変え、そこに新しいものを始める自由がある。存在を否定または肯定する精神的自由、「イエス」「ノー」を言う自由、たんに賛成・反対の意思表示として宣言や提案に対して言うばかりでなく、賛成・反対の領域を越えて、われわれの知覚や認識を司る器官に与えられるあらゆるものに対してイエス・ノーを言う自由がなかったならば、行動は不可能である。そして、いうまでもなく政治は行動から成り立つ。
(中略)

 今日までに発達してきた虚偽のざまざまなヤンルに、二つの新種を加えなければならなくなっている。第一は、マジソン街の巧妙な商法を学んだ政府の広報部員の用いる、一見無害に見える嘘である。広報は広告にすぎないのであって、市場経済をとおして配給される商品に対する異常な要求をもった消費社会から生れたものである。

 広報マンの考え方の問題点は、彼が意見や「善意」、買おうとする気持、すなわち、最小限度の具体的実在性しか持ち合わさない無形物をもっぱら対象としていることである。このことは、彼の発明が無限の可能性を持っているかもしれないように見せることを意味する。というのは、彼は、政治家のような行動力、すなわち、事実を「創造」する能力を欠いており、したがって、権力に限界を設けて想像力を地上に引き戻す役をするところの、日常生活の単純な現実性を欠いているからである。

 広報マンの行動に対する唯一の限界に到達するのは、彼がある石鹸を買わせるように操縦することのできる人々に、恐怖心を利用して強制することはもちろんできるが、意見や政治的見解を「買わせる」ように操縦することはできない、ということに気づいたときである。それゆえに、人間をどこまで操縦しうるかの限界を示す心理学的前提が、一般人や学識経験者の意見の市場で売られる主な商品となってきた。
 しかしこのような教理も、人が意見を形成する方法を変えるものではなく、また自分の自分の知識に従って行動することを妨げるものでもない。

 恐怖心を利用する以外に、彼らの行動を左右しうるものは、昔ながらの、棒につけた人参の方法である。強烈な広告の狂乱のなかで育ち、政治の半分は「イメージづくり」であり、あとの半分はそのイメージを人々に信じ込ませる技巧であると教えられてきた最近のインテリの世代が、理論ではどうにもならないほど事態が深刻になってくると、ほとんど機械的に、再び棒と人参の古い格言に頼ろうとするのは不思議ではない。

 彼らにとって、ベトナムの冒険における最大の失望は、棒と人参の方策が功を奏さない人たちがいるということの発見であるはずだった。

ウーム 著者の頭の中は長文が詰まっているようですね。
・・・抽象的な論理で畳みかけているが、起こった事象を短文で区切って、述べてくれると有りがたいのだが。

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