『漱石のパリ日記』1

<『漱石のパリ日記』1>
図書館で『漱石のパリ日記』という本を、手にしたのです。
夏目漱石といえば、ロンドン修業で苦労した作家という認識である。
その漱石さんがパリ万博を見に行ったそうで、興味深いのでおます。♪


【漱石のパリ日記】


山本順二著、筑摩書房、2014年刊

<「BOOK」データベース>より
百年以上前のパリ万博の年、国民的作家になる前の漱石は、花の都で誰に会い、何を見たか。当時のパリの街の様子や雰囲気を再現する。

<読む前の大使寸評>
夏目漱石といえば、ロンドン修業で苦労した作家という認識である。
その漱石さんがパリ万博を見に行ったそうで、興味深いのでおます。♪

rakuten漱石のパリ日記



漱石の見たパリ万博はどんなだったか・・・見てみましょう。
p40~43
<10月22日(月)> 
 漱石はパリの第一夜をどのように過ごしただろうか。さすがに疲れていてぐっすりと眠ったことだろう。22日午前8時の気温は5度まで下がったが天気は良かった。朝食後、漱石は一人で日本公使館に向かった。現在の日本大使館(1906年に公使館から)は凱旋門の北東約七百メートルのオッシュ通りにあるが、1900年当時の公使館は、凱旋門の南約ニ百メートルのマルソ通り75番地にあった。漱石の宿から歩いて行ける距離で、現在も同番地にあたる角地に古い大きな建物があり、恐らくこの建物の一部を間借りしていたのだろう。
 漱石は、二等書記官の安達峰一郎を訪ねたのだが、あいにく不在で、近くの安達お家に回ったが、ここでも会えなかった。そこで、洋画家の浅井忠を訪ねたがこちらも外出中。やむをえずいったん宿に帰り、芳賀たちと一緒に近くのヴィクトル・ユゴー通りで昼食を取った後、午後二時ごろから渡辺薫之介の案内で万国博見物に繰り出した。

 行動開始は遅かったが、漱石たちの宿から万国博会場の入口の一つがあるトラカデロ宮までは徒歩十分ほどの距離で見物の時間はまだ十分残されていた。

 1900年パリ万国博の会場配置図を見ると、パリ市内の主会場は四地区に分かれていた。エッフェル塔と陸軍士官学校の間のシャン・ド・マルス地区が最も広く、セーヌ川を挟んで対岸がトラカデロ地区。1.5―2キロ上流に、やはりセーヌ川を挟んでアンヴァリッド地区とシャンゼリゼ地区が向き合っていて、この間のセーヌ川両岸も会場として使われていた。

 会場面積は資料によって微妙に異なるが『仏政府報告書』によれば、この主会場が計113ヘクタールで、建築面積は57ヘクタール。別にパリ市東郊のヴァンセンヌの森に、農業や労働者用住宅、鉄道関係の展示をした111ヘクタールの副会場があり、ここでは後に見るようにスポーツ競技会も開かれた。計224ヘクタールの会場面積はパリでほぼ十年ごとに開かれてきた万国博覧会でも空前の規模だった。

 パリ市内の主会場のうちのセーヌ川左岸のシャン・ド・マルスとアンヴァリッド両地区には、主催のフランス側が建てた巨大な本館があった。テーマごとに教育、農業、化学、機械、電気、工芸館などに分かれていて自国と諸外国の展示品を一堂に陳列した。さらに、参加各国がそれぞれのお国ぶりを発揮して建てた特別館、各種のアトラクションを有料、無料で提供した大小様々な娯楽施設があり、レストラン、カフェ、種々の売店なども建ち並んでいた。輝かしい発展を遂げた19世紀の終幕を飾るのにふさわしい広大で豪華な祝祭空間だった。
(中略)

 この空前の国際イベントに極東の日本も進んで参加した。明治政府としては1873年のウィーン万国博以来、国力の発展に自信を深め、各国万博に積極的に参加してきたが、この「千九百年巴里万国博覧会」にあたっては、開幕の四年前に農商務省「臨時博覧会事務局」を設置して準備を進めた。総裁は歴代の農商務大臣が努め、実務の指揮は事務官長があたった。

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