『倭人の登場』1

<『倭人の登場』1>
この本は父の蔵書を受け継ぐものですが・・・・
古書なので、楽天オークションのデータです。

この本は思いのほか画像、写真が多く、ビジュアルなところがええでぇ♪


【倭人の登場】
倭人

森浩一編、中央公論社、1985年刊

<「BOOK」データベース>より
中国の文献史料に現われる「倭人」とは何者か―。東アジアの舞台に登場したわれらの祖先の目をみはる活動を、新しい考古・歴史資料にもとづき、壮大な視野のもとによみがえらせる。

<大使寸評>
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楽天倭人の登場


東シナ海横断ルート

東シナ海横断ルートあたりを、見てみましょう。
p56~59
<魏・呉・遼東と倭の関係>
■遼東の公孫氏
 倭国大乱のころの後漢は、すでに皇帝の統治力が衰え、曹氏のような実力者や宦官などが政権を掌握しつつあった時代であった。そのことは、辺境の地ではさらに顕著であって、遼東太守の公孫氏は、二世紀後半ごろからしだいに自立するようになった。

 朝鮮半島でも、日本列島に倭国大乱のあったカン帝・霊帝のころから、韓やワイの力が盛んとなって、楽浪郡の支配力が衰え、建安年間(196-220)には公孫康が楽浪郡の屯有県以南の地に帯方郡を設置し、ここに中国人を移住させ、韓やワイにも軍事的影響力をおよぼしかけた。

『三国志』東夷伝では、「この後、倭・韓ついに帯方に属す」と述べているから、倭人集団と従来の後漢王朝との直接関係は中断し、公孫氏の勢力、とくにその出先である帯方郡と倭が外交関係をもつに至ったのである。

 この文章は、「東夷伝韓条」にありながら、「韓・倭ついに帯方に属す」としないで、「倭韓」の順で記載していることも、「倭人伝」の意味、とりわけ中国人の倭人観をひもとく一資料になる。それとともに、この新しい事態によって中国と倭人の交渉のルートとして、江南、とくに会稽と結ぶ東シナ海横断ルートの役割が増大したことも当然推測できる。

 魏が建国したのは220年、その魏が司馬イの出兵によって遼東の公孫淵を敗死させたのは238年のことであったから、その翌年の女王卑弥呼の魏への遣使は、国際情勢の激変に機敏に対応したものであった。

■中平銘の鉄刀
『三国志』魏書の公孫度伝では、「始め公孫度は中平6年をもって遼東に拠り、淵にいたるまで三世(度、康、淵)、およそ50年にして滅ぶ」と書いている。中平は霊帝の年号である。くどいようだが倭国大乱のほぼ期間中であり、また奈良県天理市の東大寺山古墳に埋められていたうちの一本の鉄刀に“中平□年五月丙午”ではじまる金象嵌の銘文があるなど、日本の二世紀にとって重要な時期なのである。

 興味ぶかいことは、東大寺山古墳のある丘陵上に、奈良県には数少ない弥生系高地性遺跡が存在することである。発掘は遺跡の一部にしかおこなわれなかったが、周縁にⅤ字形の空濠を二重に掘っていて、防御用の集落であることがわかる。想像をめぐらせると、中平銘の鉄刀をこの集落の人たちが保持していたとしても年代的にはおかしくないが、中平銘の後漢の鉄刀が、中国で伝世したか、それとも日本でも九州とか大和以外の土地で伝世したものかは、まったくわからない。

 というのは、中平銘の鉄刀にかぎらず、中国製の武器や銅鏡などは、北九州にはたくさんもたらされていて、近畿地方では河内平野の遺跡からは少なからず出土するのに、大和にはきわめて出土例が少なく、中平銘の鉄刀だけに特別の解釈はできないのである。

 東大寺山古墳は古墳時代前期の前方後円墳であるばかりか、鉄刀に着けてある柄頭も、弥生時代のものではなく古墳前期の意匠を表現していて、古墳埋納にさいして新しい柄頭が装着されている。
(中略)

 すでに中国についてさまざまな地域を念頭に置くという考えを述べたが、ここでは遼東が中国の華北と倭との直接関係をさまたげるものとして浮かびあがるのである。
 中国の諸地域のうち、倭人の海上ルートとしては、南では江南(とくに会稽)、北では遼東がとくに重要であるが、公孫氏についてもさらに注目する必要がある。

 日本の古墳出土の銅鏡に、「公孫氏作鏡」ではじまる銘文のものがあるし、九世紀にできた『新撰姓氏録』では、右京にいた常世連が「燕国王公孫淵の後」としている。公孫氏勢力滅亡にさいして、朝鮮半島にとどまり、あるいは日本列島に移住した者のいたことも想像されるのである。



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