『「王権誕生」日本の歴史第2巻』1

<『「王権誕生」日本の歴史第2巻』1>
この本は父親の蔵書を継ぐものであるが・・・
水稲は、列島をどのように変えたのか。なぜ、戦争が始まったのかと、とにかく読みどころが多いのである。


【「王権誕生」日本の歴史第2巻】


寺沢薫著、講談社、2000年刊

<「BOOK」データベース>より
水稲は、列島をどのように変えたのか。なぜ、戦争が始まったのか。群雄割拠した国々は、いかに統合され、王権成立へと至ったのか。そのとき卑弥呼はどこにいたのか。最新の考古学が古代の謎を解く。

<大使寸評>
この本は父親の蔵書を継ぐものであるが・・・
水稲は、列島をどのように変えたのか。なぜ、戦争が始まったのかと、とにかく読みどころが多いのである。

Amazon「王権誕生」日本の歴史第2巻

ナラ林文化領域


「第一章 稲作伝来」で水稲農耕の伝来が語られているので、見てみましょう。
p44~48
<渡来人登場>
 それでは、稲作はなぜ列島に伝来し、わずかの間に普及したのだろう。言い方を換えれば縄文人はなぜ稲作を受け入れたのだろうか。

 西日本の縄文晩期前半以前の畑稲作を積極的に評価しようという人は、縄文後期から晩期にかけての気候の冷涼化や、東日本に比べての西日本の食糧資源環境の厳しさが、安定した食糧生産に飛び付かせた最大の要因だとしてきた。変革の原因をあくまで自然環境の激変と、受容する側の西日本縄文人に強く求めたのである。

 しかし私は、自然環境の悪化が農耕に立ち向かわせたという考えはとらない。水稲農耕の伝来と波及には、渡来人や伝えた側の弥生人の主体性をもっと評価すべきだと思う。なぜなら、東日本の縄文の雑穀栽培だって西日本以上に評価されてしかるべきだから、西日本の照葉樹林がはぐくむ食糧環境が、東日本の落葉樹(ブナ、ナラ)林帯よりも著しく劣っていたとは思えない。

 西日本ではイチイガシを主とする照葉樹林の温暖な森がピークを迎えるのは、むしろ縄文後期から晩期前半だと考える花粉研究者もいる。また、近年の人類学の成果によれば、縄文人から弥生人への形質変化は環境によるゆっくりしたものではなく、渡来人との混血による急激な変化であったと考えられているからだ。

 かた最近では、北部九州の渡来人(弥生人)と大陸の同時代人骨との比較研究も進んでいる。ミトコンドリアのDNA分析などから、山東半島や江南地域の出土人骨と高い親縁性のあることが指摘され始めているのだ。

 渡来系弥生人は同じ北部九州でも、長身で顔が細く華奢な「北九州」タイプと、やや横幅が張った彫りの深い「西北九州」タイプに分かれる。前者は山東、朝鮮半島から東北起源、後者は山東、朝鮮半島から長江流域起源の可能性が高いという。

 和佐野喜久生氏(佐賀大学農学部)は、日中韓の炭化米を調査した結果、同じ短粒米でも、玄界灘沿岸地域のものが丸く小さいのに対して、有明海沿岸地域のそれはやや長めで大きいことをつきとめた。前者は同時代の朝鮮半島のものに近く、後者は中国の長江や堆河流域のものに近いという。この結果は期せずして、人骨の二つのタイプと一致している。
 人類学者の松下孝幸氏は、山口県土井ケ浜遺跡の人骨には、男女共に渡来人としての特徴だけしか見られないことから、家族単位で数艘の船にわかれて、数世代にわたって渡来してきた半農半漁の渡来人のムラだと考える。

 征服民であれば、男性だけが渡来して現地の女性と結婚して家族を作る、ということは歴史上少なくない。また一度に大挙して渡来したのであれば、彼の地の生活道具や文化要素を顕著に残す大規模なコロニーが発掘されてもよいはずだからだ。

 それでは、彼らが農耕をたずさえ日本列島に渡来した理由は何だったのだろう。一つには、半島での混乱を逃れてきたことが考えられる。北部九州に水稲農耕が伝来した縄文晩期後半、中国では西周の封建性が崩壊して各領域国家が覇権を争っていた。農民は疲弊し、黄河下流の斉では大量の餓死者を生んだ。

 前453年には韓、魏、趙が晋の領土を分割して独立し、七雄対立の本格的な戦国時代へと突入したのである。朝鮮半島でも『三国遺事』の伝承によれば、周を逃れた殷の王族で朝鮮侯だった箕氏が、前194年その部下だった衛満に滅ぼされ衛氏朝鮮となった。王の箕準はこの時、海路で南の馬韓に逃げ韓王になったとも伝えられる。半島でも戦乱や流民はあたかも玉突きのように南下し、新天地を求めて日本列島を目指したボートピープルとなったのである。

 しかしその一方で、戦国時代は貨幣経済が浸透して商人は国境を越えて活躍した。夜臼式~板付Ⅰ式期(前四世紀)の灌漑水田や環濠集落の土木技術の高さや、さらに遅れて伝来した青銅器生産の高度な技術を見るにつけ、積極的に大陸や半島から列島に渡来し、これらの技術のノウハウを使えた人々も間違いなく存在したはずである。

 『史記』秦始皇本紀によれば、前221年、国内を統一した秦の始皇帝は、斉の方術士徐福の上書に応じて巨費を投じ、東海中の三つの神山に仙人を求めさせたという。また、『史記』や『三国志』には、徐福は平原広沢を得て王になったとか、蓬莱神仙を得られず、始皇帝の謀殺を畏れてこの洲(日本列島のこと)に止まったという記述もある。

 はたして本当に、徐福に率いられ、五穀をたずさえ、百工(各種の技術者)を含んだ童男童女数千人からなる集団が大挙して列島に渡来したか、真実は計り知れない。だが、数家族単位で幾重もの波となって、半島から渡来した多くの「徐福」たちが、稲作技術や金属器製作技術をたずさえて渡来し積極的に普及させたことが、弥生文化幕開けの大きな原動力になった、と私は推測する。


おお 多くの「徐福」たちが稲作技術をたずさえて半島から渡来したってか・・・壮観やでぇ♪

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