『東シナ海文化圏の民俗』1

<『東シナ海文化圏の民俗』1>
図書館で『東シナ海文化圏の民俗』という本を手にしたのです。
完璧な論文スタイルの本であるが、著者の撮った多数の写真が添えられていて、思いのほかビジュアルである。


【東シナ海文化圏の民俗】


下野敏見著、未来社、1989年刊

<「BOOK」データベース>より
古書につき、データなし

<読む前の大使寸評>
完璧な論文スタイルの本であるが、著者の撮った多数の写真が添えられていて、思いのほかビジュアルである。

amazon東シナ海文化圏の民俗


太子の最大の関心は東シナ海を荒らした倭寇であるが、そのあたりを「第2節 中国東南部の民俗から…倭寇の村と媽祖の島」で見てみましょう。
p207~214
<第2節 中国東南部の民俗から…倭寇の村と媽祖の島>
 筆者は1985年と翌86年の秋、それぞれ1ヵ月近くずつ、中国東南部を訪問する機会を得て、現地の人民政府の理解と協力のもとに、農村、山村、漁村の漢民族と一部の少数民族の民俗文化の実情をつぶさに見学し、調査することができた。

 現地の政府(県や村の役場)に相談してなるべく日本人の行ったことのない地域をめざして回った。福建省を中心に広東省、浙江省の民俗の理解を目標にかかげて、海沿いの国道を北上しつつ農村、山村へ入ったり、漁村を訪ねたりしながら調査した。その結果、厦門から北は、泉州、ボ田、福州、羅田をへて、温州、寧波、鎮海、紹興、杭州、上海へと、バスや列車、タクシーを乗りつぎながらではあったが、これらの全工程をすべて陸路でつないで、「民俗」の視点から見ることができた。

■倭寇の村
 センポウは、泉州から東へタクシーで1時間ほど走った地にある海村である。日本人にはほとんど知られていない。戸数九百余。人口は5100人、内訳は男子40%、女子60%で、村を行くとたしかに女が多い。男子が少ないのは兵役や出郷者、その他の理由という。生業は漁業が中心で、成年男子の70%は漁業専従で、残り30%は学生、家事、運輸の関係者。農業専従者は、いないという。

 中国の農村や漁村はいま活気にみちている。効率の悪かった人民公社の運営はすっかり改められ、個人単位の営農が多くなり、一定の目標以上を挙げた生産物は市場での販売と個人所得を認められるようになり、農民も漁民も朝から晩まで活発にはたらいている。

 厦門から上海まで、あの広大な地域にひろがる水田や畑はどこもかしこも実にみごとに耕されあるいは栽培されていて、ただの1枚も日本の休耕田のごとき荒れ田や草畑を見出すことができなかった。中国は広大とはいえ、可耕地は東部地域に集中し、11億の人口もそこに集中しているので、すみからすみまで耕さないと食っていけないのかもしれない。(中略)

 センポウは一大漁港であり、二十数人乗りの大型帰帆船が30隻余り、十数人乗りの中型帰帆船が百余隻、数人乗りの小型帰帆船が百余隻という状況で、すべて漁船である。小型船の建造は、海岸にかんたんな台座を設けて若い船大工たちが陽気に、しかし熱心に造っているのをたまたま通りかかって見た。中国の漁船は圧倒的に木造船が多い。艪に二本の板に伸ばして先端を一枚の板でつないだ姿は、水鳥の尻尾がぴんと立っているようで大へんカッコ良い。これは頂点が三角形になった中国式の高い帆柱を倒す時のクッションや竿掛けなどに良いのであろう。
(中略)

 センポウは石造家屋が多いが、中には壁に漆喰の代わりに白いカキのカラをいっぱい重ねた美しい建物も見られる。太陽の光が当るとキラキラ輝き、真珠か宝貝で造った家のように輝く。これはすばらしいと思った。民家に入らせてもらい、天井を仰ぐと天公灯があった。

 道教の影響の強い中国の諸民間宗教は、例えば媽祖信仰もそうだが、まず天を拝み地を祀る儀礼を行って廟に参拝する。天公灯は本来は天の神に捧げる灯明である。今は宗教色はうすれたとはいえ、こうして残っていることが注目される。

 台所のレンガ造りの炉をのぞくと、煙突の柱に「牡君司命」とあり、その下にあ線香立てがあり、もう少し下には穴があってそこには塩を入れた壷がおいてある。カマド神である。「牡君」は厦門の漁民の家にも祀っていた。カマドは火を使って食料を煮炊きする重要な場所であることは社会主義になっても少しも変わらない。

 しかも牡君は毎年12月23日に天に登って、その家族の1年間の善行や悪行を玉皇大帝に報告するといわれ、古くから信仰されてきた民俗神である。したがって、文化大革命による民俗神破壊の嵐が吹きすさんだにもかかわらず、こうして根づよく生き残っているのである。この牡君による玉皇大帝への報告は沖縄にも伝えられ、火の神による天の神への報告という信仰が見られる。

 文化大革命による廟や寺の破壊はすさまじかったらしく、中国の各地でその傷痕を見ることができ、中にはまだ復興が進まずに紅衛兵が書いた烈しいスローガンがそのまま壁に残っているのもある。明治初年のわが国の廃仏毀釈はひどかった。なかでも薩摩藩のそれは徹底していたが、同じようなあるいはそれ以上の破壊ぶりであったようで、おそらく心の中にも同じような大きな傷痕を残したにちがいない。

 今また、各地で廟や寺の復興、再建が進行中であるが、人びとは経済政策の一部自由化による活性化とともに民間信仰の自由化も喜んで迎えているようである。「社会主義と民間信仰」ということも筆者の訪中のテーマの一つであった。知識人はほとんど宗教からも民間信仰からも遠のいているようであるけれども、民衆レベルでは一時期の文化大革命ぐらいでは、それがどんなに烈しかったにしても破滅させてしまうことはできなかった。

 道教という幅広くて奥行きが深い中国民衆宗教は、すべてが民間信仰的粧いをもってできあがっていて、さまざまな形でいろんな場面に顔をのぞかせている。台湾は道教の花盛りともいうべく、やたらに廟や小祠が多い。それにくらべると中国本土の道教は瀕死の重傷から今ようやく立ち上がろうとしているように見える。しかし、社会基盤のちがいから台湾のようになることはあるまい。ただ、今後も根づよく生きつづけることだけはまちがいあるまい。

 農家の屋敷の一隅にポツンと立つ祠は土地公祠であり、土公神である。この小祠もまだ新しい造りであるが、このような小祠は中国東南部の農村にはいたるところに見ることができる。
(中略)

 トカラ列島はわが国の中世から近世初期にいたる民俗文化をよく伝えている地域である。この地域で明治初期頃まではふんだんに見られた髪型は中世から近世初期頃の本土でも見られた髪型であった可能性が大きい。その頃、倭寇が活動し、中国東南岸にも暴威をふるったことは余りにも有名である。何百人も大挙移動する場合は女性も必ず乗船していたであろう。こうしたことを考えると、センポウの娘たちの髪型は倭寇の影響だという説を一笑に付してしまうわけにはいかなくなる。次の倭寇墓のことも考え合わせてみよう。

 センポウの黄栄河氏は、若いけれども村の人民政府のかしらであり、いわば村長に当たる人物。その氏が歓迎の昼食のあと、村を通り抜けた先の海辺の近くにある昔の日本人の墓地に案内してくれた。

 本書口絵写真のような土手の斜面地にいくつも整然と並んでいた。写真では丸い石がいくつもあるように見えるが、実は地中にカメ壷が埋めてあって、人骨を入れ、ふたの代わりにセメントで覆うているのである。上に小さい穴があいているのもあったので覗いてみると、洗骨改葬骨が納められていた。副葬品などはないように見えた。写真に写っているだけでも草むらの分も加えると百基はくだらないようだ。

 斜面地に整然とあり、しかも洗骨改葬墓であり、上をセメントで覆うていることからすればこの墓地は移しかえたものと判断せざるを得ない。しかし、村ではだいじに扱っているのである。黄氏は、これは自分たちは全く知らない昔の人びとの墓であり、日本人の墓であるといい伝えているといった。いつ頃ということもわからない。

 センポウをはじめ恵安の付近の沿岸はかつて倭寇が跳梁し、彼らの本拠地でもあったといわれる地域だ。してみればこの墓地の日本人たちは倭寇の一味であるということになる。これだけの人の人骨が鄭重に葬られているのであるから、これは処刑した者たちを葬ったというものではなかろう。年月をおいて次々に死亡した者たちをその縁者や子孫の者が葬ってきたものにちがいないと思う。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント