『すぐそこにある希望』2

<『すぐそこにある希望』2>
図書館で『すぐそこにある希望』という本を、手にしたのです。
「すべての男は消耗品である。」エッセイシリーズ第9弾とのこと・・・切り口がなかなかのもんやでぇ。

ところで、帰って調べてみるとこの本をかりるのは、2度目になることがわかりました。
・・・で、(その2)とします。

【すぐそこにある希望】


村上龍著、ベストセラーズ、2007年刊

<商品説明>より
「クール・ビズと経済制裁」「民主党と永田元議員の悪夢」など、2005→2007年の体感エッセイを収録。自殺、格差、老後の不安…。どうやって生きのびるか? 「すべての男は消耗品である。」第9弾。

<読む前の大使寸評>
「すべての男は消耗品である。」エッセイシリーズ第9弾とのこと・・・切り口がなかなかのもんやでぇ。

rakutenすぐそこにある希望



老後の不安が語られているので、見てみましょう。
p18~25 
<貧乏な老人はどう生きればいいのか>
 やっと次の作品の準備を始めた。『半島を出よ』を脱稿した直後、某出版社の編集者数人と久しぶりに行きつけのバーで会って、いくつかの作品のアイデアについてべらべらと雄弁に話した。そのとき、大作の執筆が終わって茫然としているのかと思ったら次の作品の構想がすでにしっかり出来ているなんてさすがですね、と編集者たちは驚いていた。

 確かに小説のアイデアはいくつかある。今すぐに取りかかれる作品もあれば、長い取材が必要なものもある。だが、今考えてみるとわたしは書き下ろしを終えて単に興奮しているだけだった。

 『半島を出よ』が出版されてからすぐに、わたしはまずスロベニア経由でイタリアに行った。ほとんど二年ぶりのイタリアで、フィレンツエに長逗留するのは初めてだった。イタリアから戻るとすぐにキューバに行った。いつものようにニューヨークとカンクンを経由し、カンクンではリヴィエラ・マヤという隠れ家のようなリゾート地の、スパが有名なホテルに泊まった。

 そのホテルのメイン・ダイニングの、ヌエベ・メヒカーナとも言えるフレンチ風メキシコ料理はすばらしかった。キューバ料理も同じだが、旧宗主国であるスペインのワインがとても合う。

 キューバでは、音楽イベントで表彰されたり、バンボレオというオルケスタを秋に招聘するための交渉をしたり、そして次の小説の取材をしたりした。
 キューバから帰ってすぐにバンコクで行われた日本対北朝鮮というW杯予選の無観客試合を見に行った。

 バンコクは三回目だったがオリエンタルホテルに初めて泊まった。評判通りのすばらしいホテルで、本場のタイ料理はこれも意外にワインに合って、またいつかゆっくり来ることにしようと決めた。バンコクのあと上海に行った。初めての中国で、暑かったが、まず食事がおいしくてびっくりした。そうやって旅行を重ねる間に、いつの間にか体の中に次作へのモチベーションが生まれているのに気づいた。

 もう数年前だが、シェパードとサッカーボールで遊んでいて、右手の薬指の爪を根元から噛み千切られたことがある。爪がべろんと剥がれたのだ。爪の母細胞が抜けていたらもう生えてこないですよと医師から言われた。爪はまるまる取れていたので半ばあきらめていたが、数週間後に根元に硬いものを見つけた。新しい爪が生えてきたのだ。

 イタリアとキューバとバンコクと上海に行ったあと、次の作品へのモチベーションが誕生しているのに気づいたとき、その爪のことを思い出した。モチベーションというのは意識して掘り起こせるものではないのかもしれない。きっともっと深い無意識の領域から湧き上がってくるものなのだ。

 新作のために、老後とか定年とか年金について調べ始めた。いつの間にこれほど老後が不安定なものになってしまったのだろうか。そう言えば、何度か招かれた金融機関の「投資セミナー」みたいな場所には、学生と一緒に老人たちが大挙して講師の話を聞きに来ていた。

 大勢の人に、預貯金と退職金と年金だけでは平均寿命まで生きるのに足らないのではないかという不安があるようだ。年金の計算は複雑で、そこら辺の本を数冊読んだだけではとてもつかめない。自分が、いつかいくらの年金をもらえるのか、それもどうやら簡単には把握できないようだ。

 ただ、年金制度が将来的にとても保ちそうにないということで老後の不安が始まったのか、それとももっと以前から、たとえばバブル崩壊のあとの経済の縮小がそもそもの原因としてあるのか、あるいは都市化の波にさらされ続けて大家族制と「世間」が消滅したのが根本にあるのか、わたしにはまだわからない。
 だがはっきりしていることもある。たとえばホームレスと呼ばれるようになった浮浪者の数がわたしの子ども時代よりもはるかに多いといううようなことだ。

 ホームレスが増えたのはバブル後の不況がおもな原因だろう。だが不思議なことに、わたしの子ども時代よりもはるかに豊かな社会で、ホームレスと呼ばれる浮浪者が増えている。ホームレスについては以前にもこのエッセイに書いた。大家族制や「世間」が機能していたころは、職や住居や家族を失っても、生れ故郷の村や町内に戻れば、誰かが家に泊めてくれたり、農作業や漁を手伝って食べ物や賃金を得ることができた。

 核家族の2DKは、大家族制の田舎の一軒屋に比べると、浮浪者になりかけた親戚を泊めるのに向いていない。人の目もあるし、だいいち2DKのマンションの子ども部屋に、それほど親しくもない親戚を泊めるのは極めて異常なことで多大なストレスがある。ホームレスと呼ばれる浮浪者が都市部の公園などに大量に発生したのと、定年後・老後が不安視されるようになったことにはおそらく共通の原因がある。
(中略)

 近代化途上にあって老人がことさら大切にされてきたとは思わないが、少なくともホームレスにならずにすむようなシステムはあったのではないかと思う。
 それが今はない。だが、老後に経済力と社会的尊敬がないと生きるのが辛いというようなアナウンスメントもほとんどない。定年後や老後、そして年金や保険に関する書物を読むと暗澹とした気分になる。貧乏な老人はこれからいったいどうやって生きればいいのか、誰も真剣に考えていないようだ。

ウーム 2019年に政府側から老後に2000万円必要という話が出て、にわかに騒ぎだしましたね。

すぐそこにある希望:文体論p163~165、どう生きるかp198~201

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