『神戸と平家』2

<『神戸と平家』2>
図書館で『神戸と平家』という本を手にしたのです。
我がドングリ国の名所旧跡といえば、平家に因むものが圧倒的多数であるのです。
・・・で、神戸と平家について、系統だてて読んでみようではないか。



【神戸と平家】


歴史資料ネットワーク編、神戸新聞総合出版センター、1999年刊

<「BOOK」データベース>より
平清盛による福原遷都をはじめ平家興亡の舞台となった時代の神戸を、永井路子、足利健亮、高橋昌明、保立道久ら多彩な執筆陣によりイメージ豊かに再現。

<読む前の大使寸評>
我がドングリ国の名所旧跡といえば、平家に因むものが圧倒的多数であるのです。
・・・で、神戸と平家について、系統だてて読んでみようではないか。

rakuten神戸と平家


福原や大輪田泊あたりを、見てみましょう。
p53~59 
<地中から語る清盛の時代:須藤宏>
■福原という土地
 難波の河尻から一日航程の停泊地でり、瀬戸内海航路の主要な港として古くから栄えてきた大輪田泊の所在するのがかつての摂津国矢部郡輪田の地、現在の神戸市兵庫区の旧湊川の河口付近である。

 この湊川を約3キロさかのぼり山麓に近づくあたりが「平野」で、平野を扇頂とする湊川左岸の地域が福原とよばれる地域である。福原から和田にかけての一帯は福原荘・輪田荘とよばれるが、この地も平家一門の所領となり、日宋貿易でこの地が繁栄する1160年代ころから平家一門の別業(別邸)が次々に建てられるようになり、家督を譲った清盛は生活の本拠をこの地に移す。

 大陸からの先進文物を陸揚げする場であり、また財政基盤となった貿易港、大輪田泊は兵庫島(経ケ島)を築くなど平家みずからが多大の負担をもって整備をおこなった。この港を眼下に見晴らす福原の地は平家勢力の拠点として栄え、最後までその拠り所となっていた土地としてふさわしい。

■記録に見える「福原京」
 「福原京」は俗称であって、「福原遷都」にともなって計画された都「和田新京」の計画も挫折したことは前章で足利先生が報告されているとおりで、いわゆる福原京の実態とは後白河法皇・高倉上皇・安徳天皇の行幸を見た福原の地の平家一門をはじめとする邸宅群ということになる。

 1180年の「福原遷都」に際し安徳天皇内裏となった平清盛の邸宅は平野にあり、平野殿と呼ばれていたと『皇年代略』に見える。現在も兵庫区には平野の地名が残り、当地に福原旧都の中枢があったものと推測されている。『源平盛衰記』には平清盛の邸宅として「花見の春の岡の御所、月見の秋の浜の御所、雪見の原の萱の御所、船見の浜の浦の御所、馬場殿、二階の桟敷殿、常の住居の御所」などがあったと記述され、普請道楽の清盛はいくつもの邸宅を構えていたらしい。

 この他、福原には平家一門・平家に親しい貴族の邸宅が多数あったが、このなかでその所在地名が分かるものは、荒田の平頼盛邸に、宇治川の五条大納言藤原邦綱邸くらいである。
(中略)

 福原の地には幾多の邸宅が建ち並んでいたことが記録に残るが、平家滅亡後、福原の地が一農村に戻ったということもあって、まさしくここが誰それの邸宅跡であるというような伝承はほとんど残されていない。現在の荒田八幡神社のある島状の高まりを平頼盛邸跡と伝えるのが唯一である。

 『高倉院厳島御幸記』には福原の様子についての興味深い記述がある。厳島神社に参詣した帰りに立ち寄った高倉天皇の一行が「」とあり、市街の設計を朝鮮半島の人が行ったと記述され、異国風の町並みであったことが知られる。異国風というのが具体的にはどういうことなのか、楼閣があるということなのか、瓦葺きの建物が多いということなのかこの記述だけでははっきりしないが、いずれにしても八百年前もここが異国情緒をもった町であったということは近現代の神戸の姿とも重なり面白い。

 平清盛が逆臣とされてきた歴史もあり、都自体も半年足らずのもので、福原京は「幻の」という形容詞がつくほどにその実態が不明であった。ようやく近年に至って考古学的な福原京の実態解明が始まったばかり、というのが現状である。

■兵庫津遺跡
 大輪田泊以降の港町の遺跡である兵庫津遺跡では、明治時代以降、運河の改修などに際して松杭や巨石などがしばしば出土しており、1952年に新川運河沿いで発見されたものは直径30センチ・長さ6~7メートルの松杭・重さ4トンの花崗岩などがあった。しかし、大輪田泊=兵庫津はたびたび改修されているため、これらがいつのものなのか明らかにできない。

■楠・荒田町遺跡
 平野交差点から南に600メートルほど下った地点に平頼盛の邸宅跡と伝えられる荒田八幡神社があり、国道428号線をはさんでその東側に神戸大学病院がある。1981・1983年病棟の増改築に伴って調査が行われ、ここで平安時代末期の邸宅跡が確認された。

■雪御所遺跡
 現在、湊山小学校のあたりに雪御所町という町名があるが、これはかつての小字名からとられたもので、この地名は清盛の雪御所に由来するものと考えられてきた。実際1906年、湊山小学校の北三町ほどの地点で多数のかわらけ・瓦・礎石などが出土し、これはその推測を裏付けるものとされてきた。
(後略)

ウーム 福原の地は一農村に戻ったということで・・・盛者必衰の理なんでしょうね。

ところで、福原のすぐ隣に湊川神社があって、楠公さんとして神戸市民に親しまれているのです。
楠公さんといえば極め付きの皇道派であり・・・なんでもありの神戸市民となっております。

『神戸と平家』1:清盛塚石塔

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