『加耶から倭国へ』3

<『加耶から倭国へ』3>
図書館で『加耶から倭国へ』という本を、手にしたのです。
徴用工問題で、お互い上げた拳の下ろしどころがないような日韓関係であるが・・・
この際、日韓関係を古代史にまで遡ってみたいと思ったのです。


【加耶から倭国へ】


金達寿×平野邦雄、他著、竹書房、1986年刊

<「BOOK」データベース>より
古代史の焦点・加耶(かや)とは?朝鮮半島との関係を抜きに日本古代史は語れない。いにしえの天皇家はどこから来たのか。「任那日本府」なるものはどんな実態と意味を持っていたのか。「加耶(かや)」、それは閉ざされた日本の古代の扉を開くカギ。実際に研究者たちは加耶の古地から九州へと古代の道を歩いた。

<読む前の大使寸評>
徴用工問題で、お互い上げた拳の下ろしどころがないような日韓関係であるが・・・
この際、日韓関係を古代史にまで遡ってみたいと思ったのです。

amazon加耶から倭国へ

咸安の古墳群


「第三章 紀行座談」から、加耶の遺物について、見てみましょう。
p181~185
<加耶遺物と空白の四世紀> 
平野:晋州の博物館はやっぱり面白かったですよ。やはり、ああいうものを造る必用があるんですね。今までぼくらは加耶の物をあちこちで見てるでしょ。釜山大学校や東亜大学校の博物館とか。それを頭の中で…見てても同時になかなかイメージアップしない。今日の晋州博物館は教科書的に並んでいて、ぼくら考古学じゃなくても始めから見ているとまとまってくる点もある。なるほど少しずつ違うなということとか、加耶の一つの個性、連帯を感得するとか。

 それと、一昨日高霊の古墳をみましたね。今日咸安の古墳を見たでしょう。ちゃんと盆地、盆地にある点です。しかもみな山の尾根に古墳があるというのはねえ、他とは違いますよ。他は一つの王都の周辺だもの。そういうところが自然に見て納得がいく。加耶の国の連帯がどうなんだということと関連しますけどね。

 さらに城ですね。海岸地帯とも対照的です。海岸の諸国の城郭は梁山、城山などにしても、もっと小規模です。ああいう盆地がありませんので、後背地はないんです。つまり稲作を前提としてないんですね。こちらの方は非常に広い盆地でしょ。今はこんな程度かと思うけど、それにしても広いんですよ、盆地として。

金:安羅の古墳群なんかも、これまた山の尾根にずっと並んでいましたが、あそこは城山というところで、山城もあったところですね。

西谷:晋州博物館に、安羅関係だけの一室を設けてもいいくらいですね。

平野:ぼくは朝鮮考古学に詳しいわけでもないんで、感想で申しわけないんだけど、櫛目文と無文土器までは比較的並んでるんですよね。それから加耶式土器へ一気に飛んじゃうんだよ。そして古墳に行っちゃう。紀元前から三世紀まで一応ある。ところが四世紀がない。五、六世紀になると進歩がはっきりしてくるような物が出てくる。

 加耶式土器もそうですし。古墳の出土品も、王冠でも馬具でもきらびやかになってきますね。結局四世紀が、ぼくとしては、どうなんだろうなと思うんです。日本と合わせ鏡だと言ったが、日本も四世紀が困るんだよ。古墳の前身がどうなってるか。弥生から古墳に移る、移りぐあいのところが日本の場合よりもわかりにくい。合わせ鏡というのは、よく似てるんだなという、簡単な感想ですけど。

西谷:韓国で行われている時代区分で言いますと、青銅器時代と三国時代の間に原三国時代という、いわば過渡期があります。さて、慶州の朝陽洞というところで非常に面白い墳墓が見つかりました。木コク墓という特色ある構造から出土した土器が、まさに青銅器時代と三国時代を結ぶような土器だったんです。それが見つかってから東南部の各地で注意されるようになりました。こうして一世紀から三世紀ぐらいのことが、ここ数年の間にかなりわかってきました。ところが、おっしゃる通り、四世紀が全く幻の状態です。

 特に四世紀の前半から中程にかけては全くの幻ですね。そのころは、日本と朝鮮半島との間で、一番交流が希薄な時期なんです。四世紀末ぐらいとなりますと、両者の交流は活発になってきます。その前の弥生時代だって交流は盛んですからね。ですから、ちょうどお互いに国家のできかけるころ、日本では大和朝廷、こちらでは三国ができるころですね。両者とも古代国家誕生の産声をあげる時期でしょう。その時期が非常に交流が希薄ということです。

山尾:文献もないですね。四世紀は。

西谷:日本の場合、古墳文化の成立過程は、ある程度、考古学的に具体的にたどれるようになってきました。

平野:比較的近年ね。

西谷:安羅加耶、つまり咸安という地域は、高霊についで、考古学的な物的資料が豊富な所です。例えば古墳でも、大正六年度の調査時に五、六〇は知られています。それに対して晋州、ここを仮に古寧加耶とした場合に、わずか数基の古墳しかないんです。今日、聞きましたら、それらも今ではほとんどわからなくなったそうですね。そのように、咸安には、加耶国の国都があったとして、そこには遺跡がたくさんあります。私も固城とかシ川とか、あちこちあなり回っていますけれども、咸安は、高霊と一、ニを争う地域といえましょう。かえって金海の方がよくわからないんです。

山尾:山の向こう側の見えない所にもたくさん古墳があるんですね。

西谷:下からは見えませんでしたが、主脈の向こう側、つまり西側の支脈へと、古墳群は続いています。ここの古墳群で有名な三四号古墳ですね。ここは解放前に日本人によって発掘されています。そこから出土した遺物も晋州博物館に並んでいましたね。今日、登りました山は、城山山城という所ですが、比較的低い山でした。そこにどうも王宮があって、安羅加耶の中核部をなしていたのではないかといわれているのです。倭寇が侵略した14世紀でしたかには、当時の咸安郡庁がここの城壁内に引っ越しているんです。朝鮮の山城は、よくいわれるように、近・現代まで逃げ城として使われていますからね。

『加耶から倭国へ』2:加耶諸国の実態
『加耶から倭国へ』1:加耶と任那の関係

金:
西谷:
山尾:

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