『村上春樹と私』2

<『村上春樹と私』2>
図書館で『村上春樹と私』という本を、手にしたのです。
著者のジェイ・ルービンは『1Q84』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』などを翻訳していて、世界的に知られているそうです


【村上春樹と私】


ジェイ・ルービン著、東洋経済新報社、2016年刊

<商品の説明>より
『1Q84』『ノルウェイの森』をはじめ、夏目漱石『三四郎』や芥川龍之介『羅生門』など数多くの日本文学を翻訳し、その魅力を紹介した世界的翻訳家が綴る、春樹さんのこと、愛する日本のこと。

<読む前の大使寸評>
著者のジェイ・ルービンは『1Q84』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』などを翻訳していて、世界的に知られているそうです。

rakuten村上春樹と私


翻訳者の仕事について、見てみましょう。
p60~66
<目を瞑っては翻訳はやりにくい>
■名詞の単数と複数の区別
 村上作品の読者は、アメリカから主な影響を受けた波のような現代作家の作品に、翻訳者の発明の余地があるのだろうかと思われるかもしっれない。村上さんの作品には、数々のジャズやロックミュージシャン、あるは、アメリカ人作家が登場するのは言うに及ばず、文章構成や言葉遣いそのものも、明らかに英語的なものが多い。したがって、彼の文体はしばしば「バタ臭い」と形容される。

 村上さんの小説『1Q84』のBOOK1とBOOK2を翻訳するにあたり、彼の文体は、相変わらずバタ臭かったのだが、それと同時に、日本語からの翻訳者を常に苦しめる諸問題、つまり15世紀の能舞台から、果ては源氏物語にまで及ぶ語りの問題とも取り組まなければならなかった。

 簡単な問題点の一つとして、日本語には、名詞の単数と複数の区別がないということがある。村上さんが英語の単語をあたかも日本語の単語になっているかのように使う場合、複雑となるのである。レイモンド・カーヴァー、ジョン・アーヴィング、スコット・フィッツジェラルド等の作家と深く関わりあっている村上さんでさえ、単数と複数の違いは明確ではない。

 例えば、村上さんはジャズ音楽家に関する2冊のエッセイ集『ポートレイト・イン・ジャズ』を刊行した際、他の多くの作品と同様、英語でPortrait in Jazzとの副題を付けた。そうすることによって、日本語だけのタイトルよりも、さらにクールな表紙となるからであると思われる。

 もし、この本を英語に翻訳するとなると、タイトルは必ず、文中の複数のジャズ音楽家のプロフィールを意味するPortrait in Jazzにしなければならない。村上さんの原題の「ポートレイト」が日本語として使われていて、単数にも複数にもなる良い例である。

 『1Q84』では、超自然的と思われる「リトル・ピープル」という一団が登場する。彼らが集団として同じ動作をする場合は何の問題もないが、彼らの一人が個人として喋ったり、行動したりすると、翻訳の問題が生じてくる。たとえば、

 「われらに良いことをしてくれた」と小さな声のリトル・ピープルが言った。
 というところを英訳すると、わざわざ「リトル・ピープルの中の一人である」(one of the Little People)というニュアンスを「小さな声のリトル・ピープル」に次のように加えなければならなかった。

You did us a favor, says one of the Little People with a small vcice.(2:403/tr.P.535/UK 566)

 『1Q84』の世界では、ある人物は、空には二つの月が存在すると核心する。一つは通常の黄色い大きな月であり、もう一つは小さめの緑色をした歪な月である。二つの月が見える人物は当然、他の人にも見えるかどうか尋ねたいと思う。しかし、頭が変になったかなと思われるのが怖くて、その事実を確かめるのを躊躇する。したがって、二つの月は、疎外感、つまり、他人に正直に述べることを不可能にする、疎外感のシンボルとなる。(中略)

 明治時代の小説家、泉鏡花は特に、能舞台の言語に造詣が深く、彼の語り口が登場人物の頭の中を出たり入ったりするので、正確に翻訳するのは困難だ。
 しかし、現代の『1Q84』のような小説においてさえ、内的独白は、「」とか活字のフォントの違いとかの助けなしに、登場人物が「俺」の一人称から「彼」の三人称との間を予測なしに、行ったり来たりする長い箇所がある。

 私は数回にわたって、村上さんに、この箇所は一人称か三人称か、どっちがよいでしょうかと質問したのだが、彼の答えは決まって「適当にやってください」というものであった。

 結局この「適当」という言葉こそが、翻訳者の仕事をすべて言い表していると思う。翻訳者の仕事はつまり、自分の言葉で、適当と思われる手法を使って、できうる限り、読者に原文に近い文学的な経験を味わってもらうことである。もちろん、誰もが、客観的な意味で何が「できうる」かは分かっていない。あまりにも多くの要因が、翻訳者の主観的な経験に基いているからである。


『村上春樹と私』1:翻訳の苦労

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