『昭和二十年夏、僕は兵士だった』1

<『昭和二十年夏、僕は兵士だった』1>
図書館で『昭和二十年夏、僕は兵士だった』という本を、手にしたのです。
例年、終戦記念日のころには、各メディアで戦争がとりあげられるわけで・・・
太子も気になったのです。


【昭和二十年夏、僕は兵士だった】


梯久美子著、角川書店、2009年刊

<「BOOK」データベース>より
南方の前線、トラック島で句会を開催し続けた金子兜太。輸送船が撃沈され、足にしがみついてきた兵隊を蹴り落とした大塚初重。徴兵忌避の大罪を犯し、中国の最前線に送られた三國連太郎。ニューブリテン島で敵機の爆撃を受けて左腕を失った水木しげる。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、沖縄海上特攻を生き延びた池田武邦。戦争の記憶は、かれらの中に、どのような形で存在し、その後の人生にどう影響を与えてきたのか。『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(大宅壮一ノンフィクション賞)の著者が綴る、感涙ノンフィクション。

<読む前の大使寸評>
例年、終戦記念日のころには、各メディアで戦争がとりあげられるわけで・・・
太子も気になったのです。

amazon昭和二十年夏、僕は兵士だった


金子兜太さんの戦歴を、見てみましょう。
p13~16
 秋の1日、埼玉県熊谷市の自宅に、金子兜太氏を訪ねた。
 通された客間は庭に面していた。さまざまな植物が植えられ、鳥の声がする。座り心地のいい布張りのソファと、手入れの行き届いた古い家具。ガラス戸はきれいに磨かれている。ていねいに暮らしている人の家だと思った。

 気持ちのいい部屋ですね、と言うと、そうか、そりゃあせがれの嫁さんのおかげだ、と笑った。前年に夫人を亡くし、息子夫婦と暮らしているという。

 金子氏は紺色の作務衣姿だった。袖口からのぞく手首が太い。兜太、という名は父がつけた本名だというが、あごの骨ががっしりと張っていて、その顔はまさに「兜」という字のような形をしている。

 骨太な身体からは、87歳とは思えない野性的な迫力のようなものが伝わってくる。眼光もするどい。が、ときどき、なんともいえない茶目っ気っが目と口元に浮かぶことがある。
 大柄な身体を椅子に沈め、よく通る野太い声で、金子氏は話しはじめた。

 …トラック島は、大小の島からなる大きな環礁で、その中の夏島という島に、第四海軍施設部の主計中尉としてわたしは着任した。金銭や食料に関することと、庶務的なことが仕事だった。

 着任するとすぐ、甲板士官というのになってね。工員たちの風紀を取り締まるのが仕事で、ほんらいは兵科の士官の役目なんだが、施設部ってのは土建部隊だから、軍人は主計科と軍医科しかいない。それでわたしにお鉢が回ってきたわけだ。

 施設部の仕事は要塞を構築することで、多くが応募してきた工員だった。全部で1万2000人ほどいて、その中で、戦争末期になってのわたしの直属の部下は約200人。肉体労働で生きてきた男たちがほとんどだ。

(中略)
荒くれ男たちを束ねる
 バクチに男色と聞いて、まがりなりにも軍隊内でそんなことがあるのかと私は驚いたが、工員同士の殺人事件が起こったこともあるという。

 何気ない顔をして相手に近づき、おう久しぶり、と言いながら肩をつかまえ、そのままぐっと片手で首を抱えて、持っていた刃物で頚動脈をざっくり切った。即死である。殺した男は牢に入り、重労働を科せられたが、殺し方が見事だったと工員たちの間で評判になったという。
「あいつはすごいと、みんなから尊敬の目で見られたね」

 大学を出たばかりの24歳の若造が、いきなり海千山千の男たちの中に放り込まれたことになる。

 金子氏が着任したのは昭和19年3月初旬。横浜の磯子から、海軍の二式大艇という飛行艇で飛んだ。着いたトラック島は「とにかく真っ黒焦げだった」。前月、アメリカの機動部隊に二日連続で爆撃を受け、270機の飛行機と43隻の艦船を失っていた。環礁の中には、いくつもの艦船が無残に船底を見せて沈んでいた。

 トラックは、サイパンやグアムなどのように単独の島ではない。大きな環礁の中に、大小様々な島が点在しており、正確にいえばトラック諸島である。
 春・夏・秋・冬と季節の名がつけられた四季諸島、月曜・火曜・水曜…と曜日の名がついた七曜諸島。主要な施設が集まり、基地の中枢となっていたのは、金子氏が着任した夏島である。そおほかにも、零戦の基地があった竹島をはじめ、薄島、楓島、芙蓉島など、美しい名のつけられたいくつもの小島があり、島の数は全部で90にもなる。

 これらの島々は、ぐるりと取り巻く環礁に守られた形になっているため、波は静かで、艦隊の停泊地として最適だった。一時は「武蔵」、「長門」、「大和」などの戦艦も、ここに錨を下ろしていた。
 米軍に空から叩かれ、黒焦げになったトラック島をどうするのか。…要塞化して死守せよ、というのが上層部の命令だった。

 しかし結局、米軍がトラック島に上陸してくることはなかった。彼らが向かったのはマリアナ諸島デアル。サイパン、グアム、テニアンで上陸作戦を行ない、飛行場を手に入れた。そこからは、B29で本土爆撃が可能だ。トラック島は放棄された。補給を断たれ、満足な武器も食料もないまま、自活するしかなくなった。終戦まで飢えとの戦いが続くことになる。

 そんな状況の中で、荒くれ男たちを束ねていくのは、さぞ大変だったろう。しかし金子氏は、かれらが決して嫌いではなかった。つきあうほどに親しみを感じるようになっていったという。



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