『日本人の「あの世」観』4

<『日本人の「あの世」観』4>
図書館で『日本人の「あの世」観』という本を、手にしたのです。
大使の関心は縄文期の狩猟採集文化や水稲耕作あたりにあるわけで・・・
そのあたりが載っているので借りる決め手になったのです。



【日本人の「あの世」観】


梅原猛著、中央公論新社、1993年刊

<「BOOK」データベース>より
古代史の再検討を通して次々と大胆な問題提起を行い、「梅原日本学」を展開してきた著者が、アイヌと沖縄の文化の中に日本の精神文化の基層を探る。日本人の「あの世」観の基本的特質が、生命の永遠の再生と循環にあることを明らかにし、併せて人類の文明の在り方を根本的に問い直す日本文化論集。

<読む前の大使寸評>
大使の関心は縄文期の狩猟採集文化や水稲耕作あたりにあるわけで・・・
そのあたりが載っているので借りる決め手になったのです。

なお、借りたのは1989年刊の中公叢書でした。

rakuten日本人の「あの世」観




仏教を題材として宮沢賢治が語られているので、見てみましょう。
p294~295
<童話で語る新しい世界観> 
 彼は童話を、『法華経』の世界観を広めるためにつくったという。しかし、その言葉は多少割り引いて考えたほうがよい。賢治はあくまでも謙虚な人間であり、自己の思想を大げさに宣伝する人間ではなかった。

 それは彼の作品の発表の仕方を考えればよくわかる。賢治が生前発刊した書物は詩集『春と修羅』と、童話集『注文の多い料理店』の2冊だけであった。そして、この他の詩や童話は、ほとんど中央の文壇の目の届かない、地方の同人雑誌などに発表された。

 大正13年に、『注文の多い料理店』を発刊した賢治は、12巻の童話集の発刊を計画した。しかし、この『注文の多い料理店』の売れゆきはさんざんであった。書物は一向売れず、この12巻の発刊も夢と化したのである。

 賢治は一生売れない詩人であり、認められない文学者であった。その最も大きい理由は、賢治の思想がはるか時流を抜きんでていたことによってである。賢治の世界観は、当時の日本人が拠っていた世界観とまったくちがう世界観であり、当時の日本人の理解を絶していたのである。まさに賢治はそのようにして、いわゆる天才の孤独の道を歩まざるをえなかったわけである。

 しかし、そのことは賢治のほうに責任がまったくなかったわけではない。発表しようと思えばどこへでも発表できたはずである。賢治の家は金持なので、自費出版の力は十分あったはずであるし、東京の出版社に売り込むこともできたと思われる。しかし、賢治はそんなことをしなかった。そんな金があれば彼は今日の糧に悩む人々にあげたいと思っていたであろうし、自分の作品が時流を抜きんでているという自負をもったにしても、彼はそのような作品の出版を、まったくそれを理解しない人々に哀願するというようなことを屈辱と考えたにちがいないのである。

 賢治が『法華経』の世界観を普及するために童話を書いたと言ったとしても、それは少しちがっている。彼は『法華経』の影響を受けたにちがいないが、やはり独自の世界観を創造したのである。その独自の世界観を彼は童話という形式によって表現したのである。それは童話という形式が、その独自の世界観を表現するのに最も適当であると彼が考えたからである。

 そしてそのような世界観こそ、「星がさうならうと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する/あしたの世界に叶ふべき」世界観であり、未来の世界の「まことと美との模型」と考えたのである。宮沢賢治の童話を、われわれはそのようなものとして考えねばならないのである。


ウン 賢治の世界観は、今の時流をさえ抜きんでているかもしれないが・・・
宮沢賢治の童話は奥が深いですね。

『日本人の「あの世」観』3:東北文化への新たな視点
『日本人の「あの世」観』2:古代から縄文時代へ
『日本人の「あの世」観』1:縄文文化論

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