『隠された十字架』1

<『隠された十字架』1>
図書館に予約していた『隠された十字架』という本を、待つこと20日でゲットしたのです。
かなり分厚い本であるが・・・
若き日の梅原猛の作品とあれば齧りつきがいがあるだろう♪


【隠された十字架】


梅原猛著、新潮社、1986年刊

<「BOOK」データベース>より
古書につきデータなし

<読む前の大使寸評>
かなり分厚い本であるが・・・
若き日の梅原猛の作品とあれば齧りつきがいがあるだろう♪

<図書館予約:(4/07予約、4/27受取)>

rakuten隠された十字架


まず気合の入った「はじめに」を、見てみましょう。
p1~3
<はじめに>
 この本を読むにさいして、読者はたった一つのことを要求されるのである。それは、ものごとを常識ではなく、理性でもって判断することである。常識の眼でこの本を見たら、この本は、すばらしき寺、法隆寺と、すばらしき人、聖徳太子にたいする最大の冒涜に見えるであろう。日本人が、千何百年もの間、信じ続けてきた法隆寺像と大使像が、この本によって完全に崩壊する。

 冒涜の書よ、破壊の書よ、危険の書よ、妄想の書よ、人が健全な常識と、正しい良心をもてばもつほど、人はこの本にたいしてそういう非難の言葉を投げつけるであろう。真の意味において革命的なあらゆる学説が受けねばならぬそのような非難を、私もまた甘んじて受けようと思うが、一言のアポロギアが許されてよいであろう。

 私は哲学を天職として選んだ。哲学というのは、文字通り、フィロソフィア、知を愛すること、名誉や、権力や、金銭より何よりも真理を愛することである。しかし、真理を愛することは容易なことではない。なぜなら、人間というものはとにかくきびしい真理の女神より、虚偽の淫女につかえることを好むものであるからである。そして、虚偽の淫女が、常識という仮面をかむって、長い間人々に信じられているとき、あたかもその淫女は、真理の女神より一層女神らしく見えるからである。

 それ故に、哲学の仕事は徹底的な常識否定の仕事から始まる。それは多くの人々がそれに依拠している常識を否定して、人々を懐疑の中につき落とし、そこから新たに根源的な思惟をはじめさせようとする仕事である。この仕事は本来危険な仕事である。この危険な情熱に憑かれたソクラテスは、そのためにアテナイの常識人の怒りを買い、ついにその命を落とした。

 ソクラテスの徒として、私がここで行なったのは、こういう常識の根本否定と、かくされた真理の再発見であった。ここで日本の古代に関する長い間の常識は否定され、隠された真理が現れる。ソクラテスは真理の認識は想起によって起こるという。人間の魂は、かつて真理の国にいて、真理をはっきり見ていた。しかし、今や人間は現象の国に生まれて、真理をはっきり見る眼を失った。それ故、この現象の国で、真理を認識するためには、かつての彼の魂がそこにいた真理の国を想起すればよいというのである。

 プラトンの『メノン』にかかれたこの言葉を、今、私は感激をもって思い出す。ここで私の認識の意思は過去へ向かっていた。法隆寺が、その造られた時点において、どういう意味をもっていたかが、私の問いであった。しかし、千年以上もたって、真理はおおいかくされ、誤まった見解が常識として通用していたため、法隆寺は謎に包まれた寺となっていた。

 私はある日、その暗い謎の底に真理が微笑みかけるのを見た。推論によって、その真理をひき出して見ると、真理は確固とした体系をもち、あたかも想起によって、過去そのままがそこに再現されるかのようであった。私が真理を発見したのではない。真理が長い間の隠蔽に耐えかねて、私に語りかけてきたのである。

 どうやら私の言葉は、一つの本の序文の言葉としては、いささかひびきが高すぎるようである。冷静に事実を語ろう。私が法隆寺にかんする新しい仮説に気づいたのは、一昨年の春であった。

 その頃、私はそれより約半年前に考えついた別の仮説の追求に夢中になっていた。それは『古事記』『日本書記』にかんする仮説である。『古事記』と『日本書記』の制作主体を藤原不比等と考え、『記紀』において語られている日本神話を律令体制にもとづく宗教改革の神話と考える仮説である。


ウーム 梅原さんとは、こんな高飛車なモノ言いをする人だったのか・・・論理よりその口調に驚いたのです。

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