『村上春樹(群像日本の作家)』2

<村上春樹(群像日本の作家)2>
図書館で『村上龍(群像日本の作家)』というムック本を、手にしたのです。
ちょっと古い(群像日本の作家)シリーズであるが、写真も多く、切り口も多彩であり、なかなかのシリーズである。


【村上春樹(群像日本の作家)】


ムック、小学館、1997年刊

<出版社>より
『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』以来、新しい感覚で現代人の「生」をとらえなおし、日本文学をまさに現代のものにして、文学の世界を大きく広げた村上春樹。その透明な抒情の漂う不思議な文学世界は、いまなお広がりつづけており、多くの読者をひきつけている。
例えば評論家・山崎正和氏は『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』に触れて、現代でもなお文学は自由や愛について夢を見、憧れることをやめていないようだ、といい、この作品はその行為が夢にすぎないと認めながらも、なおそれを夢見ることの意味を謳いあげようとしたものだ――と評している。

<読む前の大使寸評>
ちょっと古い(群像日本の作家)シリーズであるが、写真も多く、切り口も多彩であり、なかなかのシリーズである。

amazon村上春樹(群像日本の作家)


丸谷才一さんの群像新人賞選評で、村上評を見てみましょう。

<『風の歌を聴け』:丸谷才一>p289~290
 村上さんの『風の歌を聴け』は現代アメリカ小説の強い影響の下に出来あがったものです。カート・ヴォネガットとか、ブローティガンとか、そのへんの作風を非常に熱心に学んでゐる。その勉強ぶりは大変なもので、よほどの才能の持主でなければこれだけ学び取ることはできません。

 昔ふうのリアリズム小説から抜け出さうとして抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとへ外国のお手本があるとはいへ、これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、注目すべき成果と言っていいでせう。

 しかし、たとへばカート・ヴォネガットの小説は、哄笑のすぐうしろに溢れるほどの悲しみがあつて、そのせいで苦さが味を引き立ててゐるのですが、『風の歌を聴け』の味はもつとずつと単純です。

 たとへばディスク・ジョッキーの男の読みあげる病気の少女の手紙は、本来ならもつと前に出て来て、そして作者はかういふ悲惨な人間の条件ともつとまともに渡りあはなければならないはずですが、さういふ作業はこの新人の手に余ることでした。この挿話は今のところ、小説を何とか終わらせるための仕掛けにとどまつてゐる。

 あるいは、せいぜい甘く言っても、作者が現実のなかにある局面にまつたく無知ではないことの証拠にとどまつてゐる。このへんの扱ひ方には何となく、日本的抒情とでも呼ぶのが正しいやうな趣があります。もちろんわれわれはそれを、この作者の個性のあらわれと取つても差支へないわけですけれど。

 そしてここのところをうまく伸ばしてゆけば、この日本的抒情によって塗られたアメリカふうの小説といふ性格は、やがてはこの作家の独創といふことになるかもしれません。 とにかくなかなかの才筆で、殊に小説の流れがちつとも淀んでゐないところがすばらしい。


『村上春樹(群像日本の作家)』1

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