『新潮日本文学アルバム宮沢賢治』2

<『新潮日本文学アルバム宮沢賢治』2>
図書館で『新潮日本文学アルバム宮沢賢治』というシリーズ本を手にしたのです。
ぱらぱらとめくると、ビジュアル本なので全ページ写真入りなのはもちろんであるが・・・
解説もなかなか読ませる内容になっているのです。


【新潮日本文学アルバム宮沢賢治】


全集、新潮社、1984年刊

<「BOOK」データベース>より
ムックにつきデータなし

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると、ビジュアル本なので全ページ写真入りなのはもちろんであるが・・・
解説もなかなか読ませる内容になっているのです。

rakuten新潮日本文学アルバム宮沢賢治



大正11年~15年あたりを、見てみましょう。
p39~48
<出京・花巻農学校教師時代>
 妹トシの病状は次第に悪化、一時下根子桜の別宅へ移したが[大正11年]11月には実家に戻し、27日夜、ついに永眠する。これは詩人にとって真に衝撃的な出来事であった。この日の日付けをもつ「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」の三篇のあと、しばらく詩作の筆は絶たれたと推定される。

 翌大正12年1月、童話原稿を携えて上京、弟清六に東京社へ持ち込ませたが断られている。しかし4月には「岩手毎日新聞」に童話「やまなし」「氷河鼠の毛皮」、詩「外輪山」を発表、5月には同じく「岩手毎日新聞」に童話「シグナルとシグナレス」を連載している。
(中略)

 翌大正13年4月、これらの心象スケッチを集成した『春と修羅』1千部が刊行された。東京の関根書店を発行元としているが、自費出版である。残された印刷用自筆原稿をみると、それら清書稿にも縦横に手入れが施されているのみならず、収録作品の出し入れなど、詩集の構成にも非常な配慮がなされていることがわかる。

 やがて7月3日、読売新聞で辻潤が激賞、年末には「日本詩人」で佐藤惣之助が《十三年の最大収穫》の一つに挙げたが、これらの好評に対して賢治は《まだ挨拶も礼状も書けないほど、恐れ入ってゐます》と、森佐一への手紙に記している。

 5月には白藤慈秀とともに生徒を引率して北海道修学旅行、帰ってから「修学旅行復命書」を提出している。演劇活動はこの年の8月にも、農学校講堂で「飢餓陣営」「植物医師」「ポランの広場」「種山ヶ原の夜」の4本立てというかたちで公開され、終演後グラウンドで大道具小道具を燃やして生徒たちと乱舞した。これら、生鮮な文で綴られた「復命書」や生徒たちを指導した演劇活動は賢治の“限界芸術”の実践として、のち鶴見俊輔の評価するところとなるものである。

 12月に地方色豊かな童話を類集した『注文の多い料理店』を刊行したが反響はなかった。挿絵を描いた菊池武雄らとの内輪の出版祝の席上で賢治は「銀河鉄道の夜」の第一稿とみられる作品の原稿をポケットから出して読んでみせたという。

 翌大正14年、それまで文通のみだった森佐一(当時中学生)と知り合い、また『春と修羅』を読んで驚いていた草野心平から来信があり、森編集の「貌」、草野編集の「銅鑼」に詩を発表しはじめる。そしてこの草野を通じて賢治に注目した尾形亀之助の依頼に応じて、翌大正15年1月に尾形の創刊した「月曜」に童話「オツベルと象」、「ざしき童子のはなし」、「寓話 猫の事務所」が次々に発表された。

 この年(大正15年)1月から3月まで県主催により農学校に開設された岩手国民高等学校で講師として農民芸術論を講じているが、この間、すでに退職の意思を固めていて、下根子桜の別宅に大工を入れて改造するなど、次なる活動の準備をしている。


『新潮日本文学アルバム宮沢賢治』1

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