『サボ島沖海戦』1

<『サボ島沖海戦』1>
図書館で『サボ島沖海戦』という本を、手にしたのです。
“史上最大の敗北”と米国ジャーナリズムが評した夜の砲戦を見てみようではないか。


【サボ島沖海戦】


リチャード・F・ニューカム著、潮書房光人社、1998年刊

<「BOOK」データベース>より
昭和17年8月8日、ガ島沖に集結する敵船団に伝統の夜襲をかけた三川中将率いる巡洋艦部隊は、待ちうけた連合軍艦隊を完膚なきまでに打ちのめした。“史上最大の敗北”と米国ジャーナリズムを震撼させたソロモン海戦の全貌を、米濠司令官・各艦長の砲戦下の動向も据えて克明に描いた感動のノンフィクション。

<読む前の大使寸評>
“史上最大の敗北”と米国ジャーナリズムが評した夜の砲戦を見てみようではないか。

rakutenサボ島沖海戦


この海戦の当事者でもある三川中将が回想記を寄せているので、見てみましょう。
p319~322
<回想記>
 わたくしは自分がした戦争の話をすることは好まない。だから求められても、いままで人にも会わなかった。この本の発刊に当たって、出版協同社の社長福林正之氏と訳者の田中至氏がわたくしのところへみえて「負けたからこそ大いに兵を語って後世への戒めとなすべきだ。国家と民族の運命にこれほど大きな影響を与えた戦争なのだから、是非の論は別として、事実だけは明らかにしておく義務がわれわれにある」といわれた。それには同感の点もあるので、ここに当時を思い起こしてみることにした。

 1942年6月、ミッドウェー海戦ののち、わたくしは第三戦隊の旗艦「比叡」に坐乗し、戦艦「霧島」「金剛」を率いてアリューシャン方面に進出していた。第八艦隊司令長官を拝命したのは、7月初旬、艦隊が南下し、ちょうど大湊沖を通過するときのことであった。その電報によると、ソロモン方面に第八艦隊を編成したから、その初代司令官を命ずるということであった。

 それまで、ソロモン海域はトラック島に司令部を置く井上成美中将〇下の第四艦隊が受け持っていた。わたくしは7月25日、トラック島に着いて、第四艦隊の司令部と作戦の打合せを行ない、第八艦隊は巡洋艦七隻と駆逐艦二隻の編成でラバウルに向かった。

 ラバウルにいた陸軍は、東部ニューギニアのオーエン・スタンレー山脈を越えてポートモレスビーを占領しようとしていた。これを研究作戦と呼び、現地の陸軍は意気軒昂、豪州軍などではもの足りない、アメリカの正規軍が出てくるのは願ってもないことだ、それを一挙に叩いて、米国民全体の士気を喪失させ、戦争を短期にかたづけてしまおう、とたいへんな鼻息だった。これを聞いたわたくしは、「これまで日本陸軍は負けたことがないのだから、それぐらいのことはやれるだろう」と思った。

 このように陸軍と打ち合わせをしている間に、敵が大挙してガダルカナル島とツラギにやってきた。
 わたしはここで、自ら進軍して敵を撃滅しようと決心した。
 昔から軍書は、損害を恐れて、なすべきこともしない将をいましめている。「孫子」に「勝ってしかる後に戦を求む」とあるが、これは勝算があって初めて戦えという意味で、負けるかもしれないと恐れて戦いをしかけないのもよくないが、だからといって、負けることがわかっているのに猛進するのは愚であるといういましめである。

 もともとわたくしの専門は航海術で、真っ暗の海上での操艦には自信があった。この点は海軍部内でも認められていたとみえ、野戦に使う艦、つまり30ノットを出す「」クラスの戦艦艦長をよく務めた。

 野戦では、艦を衝突させたり暗礁に乗り上げたりすることを避け、敵より早く相手を発見し、敵より早く命中弾を送ることが要訣である。だから勢力の大小は問題ではない。ひとつのガッチリ組んだ練達の部隊が上手に突っ込めば、敵の半分の勢力でも、十分に戦えるものだ。

「米軍ガ島に来襲」の報に接したとき、わたくしは、ただちに部隊を集めて攻撃をかける決心をしたのだが、べつになんら心中の不安はなかった。八艦隊司令部の幕僚中にも、わたくしの考えに反対したものはひとりもいなかった。いわゆる以心伝心で、司令部一同がこの作戦に全く同じ考えだったのだろう。
(中略)

 戦闘の準備として特に意を用いたことは、各艦の水上機一機ずつに燃料を満載にしたあと、ガソリンの残りは全部海中に棄てさせたことで。その他の甲板上の可燃物もすべて海中に投棄した。

 1942年8月8日の日没後、旗艦から最後の水上偵察機を発進させた。敵がどのような勢力でいるのかということは、昼間から何度か行なった偵察でわかっていたから、いまさら偵察の必要はなかった。この「鳥海」水上偵察機の任務は、わが部隊突入時に敵を照らし出す吊光弾を落とすのが任務であった。

 吊光弾は敵艦隊の東側、つまりわが艦から見て向こう側に落とすことになっていたが、これがみごとに成功した。敵の艦隊の並んでいるのが、ちょうど影絵のように見えた。こうして魚雷は正確に照準をつけて発射することができた。


ウーム ガ島攻防は島嶼戦闘の始まりであったが、1945年の硫黄島攻防、沖縄戦まで3年の間に坂道を転がるように負け戦さが続くことになります。





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