『新潮日本文学アルバム井伏鱒二』2
<『新潮日本文学アルバム井伏鱒二』2>
図書館で『新潮日本文学アルバム井伏鱒二』という本を、手にしたのです。
井伏鱒二といえば、以前に読んだ『徴用中のこと』にあるとおり戦中派の作家という印象も強いし、『黒い雨』の作者でもある。
昭和23年~41年あたりを、見てみましょう。
『新潮日本文学アルバム井伏鱒二』1
『徴用中のこと』2
『徴用中のこと』1
図書館で『新潮日本文学アルバム井伏鱒二』という本を、手にしたのです。
井伏鱒二といえば、以前に読んだ『徴用中のこと』にあるとおり戦中派の作家という印象も強いし、『黒い雨』の作者でもある。
【新潮日本文学アルバム井伏鱒二】 ![]() 井伏鱒二、新潮社、1994年刊 <「BOOK」データベース>より 少年時代は画家志望。青春の孤独を通して得たユーモアとエスプリ、清新な感覚で開花した市井人の文学。原爆の悲劇を世界に訴えた『黒い雨』の巨匠の生涯。 <読む前の大使寸評> 井伏鱒二といえば、以前に読んだ『徴用中のこと』にあるとおり戦中派の作家という印象も強いし、『黒い雨』の作者でもある。 rakuten新潮日本文学アルバム井伏鱒二 |
昭和23年~41年あたりを、見てみましょう。
p64~77 <「黒い雨」への道程> 昭和24年8月から翌25年5月にわたって「本日休診」を「別冊文芸春秋」に断続分載し、5月、『本日休診』その他によって第一回読売文学賞を受賞する。なおこの年の2月には「遥拝隊長」が発表されている。 これは気の狂っている元陸軍中尉の異常な言動を通して、戦争の悪夢を象徴的に庶民生活の内に描きだした名作である。「犠牲」(昭和26)の中で、輸送指揮官が日本軍快勝のニュースを聞くたびに徴用員を甲板に集めては東方遥拝させる様子が述べられているが、この指揮官の第一声が「ぐずぐず云うと、ぶつた斬るぞ」であった。 狂人ではなく“正常”な遥拝隊長は、井伏鱒二の眼前に実在していたのである。 このころより、作風に変化がみられ、戦争を堺とするかのようにその細密な観察の目は、作者の心に直にふれてくる揺るがしがたい“事実”の側により深く注がれていくように見える。 以降、『川釣り』『乗合自動車』(昭和27)、「かるさん屋敷」「安土セミナリオ」(昭和28)等数多くの作品が発表、刊行されていく。昭和31年4月には「徴用で戦地に行くと仲間の軋轢がたまらかつた。その気持の憂さばらしをしたつもりで書きました」とも述べている『漂民宇三郎』が刊行され、5月にはこれにより日本芸術院賞を受賞する。 32年には『駅前旅館』を刊行。33年春より翌年春にかけて甲州・外房・淡路島・吉野などを旅行し「釣師・釣場」として連載する。33年7月には芥川賞選考委員となり、昭和40年度下半期まで委員を務めている。 34年『珍品堂主人』を刊行。この年より翌年にかけては土佐・甲州・近江・熊野・能登などを旅行し、紀行文を連載し『取材旅行』(昭和38)にまとめる。 昭和40年1月、「正義の戦争より、不正義の平和の方がいい」という善良な一庶民の目から原爆を見据えた「姪の結婚」(8回より「黒い雨」と改題)が連載されたのである。 (中略) しかし「さながら地獄から来た使者」(『黒い雨』)である原爆は、“空想”の入り込む余地を許さぬ紛れも無い現実であった。この前例のない「事件そのものの真面目」と対峙したとき、作者は“空想”を離れ「極力事実を尊重してルポルタージュとして書く」という、記録者たることに徹しようとしたのである。 |
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『徴用中のこと』1
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