『敵機に照準』4

<『敵機に照準』4>
図書館で『敵機に照準』という本を手にしたのです。
渡部洋二氏といえば・・・
今次大戦の戦闘機、「雷電」とか「二式水戦」などについて、いろいろと渋い著作を出している作家である。
ということで、飛行機オタクのツボが疼いたのです。



【敵機に照準】


渡辺洋二著、潮書房光人新社、2016年刊

<「BOOK」データベース>より
戦闘機や爆撃機を筆頭に、たいていの攻撃用機は射撃、爆撃、雷撃などのための照準器(陸軍は照準具)を備えている。あやまたぬ照準が命中と破壊をもたらし、敵戦力の消耗が戦局の好転につながる。どれほど雄大な戦略、巧妙な戦術を抱いていようとも、個々の戦場での具体的勝利がともなわなくては、画餅でしかない。

<読む前の大使寸評>
渡部洋二氏といえば・・・
今次大戦の戦闘機、「雷電」とか「二式水戦」などについて、いろいろと渋い著作を出している作家である。
ということで、飛行機オタクのツボが疼いたのです。

rakuten敵機に照準

<四式戦

「四式戦(疾風)」を、見てみましょう。
p159~161
■邀撃戦に参加
 教育と戦闘の両方に熱意をそそいだ倉井少尉は、2月10日の出撃から帰らなかった。中島・太田製作所をねらったB-29梯団19機に、群馬県館林の上空で攻撃を加えたのち、前上方から先頭機に体当りを敢行。尾部を砕かれた敵機に後続機がぶつかり、いっきょに超重爆二機を葬ったのだ。また、僚機の坂田軍曹は被弾後に落下傘降下で生還できた。

 この体当りは米乗組員にも目撃された。第505爆撃航空群機は太田から3キロ東方で尾部を失い、衝突の後続機は機首をもがれて、ともに墜落したと報じられている。

 二日後、金児少尉に付きそわれ、村岡曹長操縦の双発高練で相模飛行場にもどってきた倉井少尉の遺体を、江原少佐以下の全員が敬礼で迎えた。

■敗戦までの状況
 補充機は教官・助教が、おもに中島の宇都宮製作所へ取りにいき、四式戦特攻基地の都城から残予機を空輸したこともあった。最盛期には保有数50機(稼働率は7割ほど)に達した一練飛の戦力は、空襲、被墜、事故などでじりじり減っていく。

 米海軍第58任務部隊の艦上機群による初の関東空襲の二日目、2月17日は一練飛の厄日であった。教官になって2ヶ月の城戸少尉が、埼玉県上空で敵戦闘機に落とされ戦死。その僚機の岩田三男伍長も帰らなかった。

 二中隊長・山本中尉の編隊は、東京湾上空でグラマンF6Fと空戦に入った。分隊長機の村岡曹長が斉射を浴びせたとき、上方から別のF6Fに撃たれて被弾。火傷を負って機外へ脱出し、海軍の救助艇にひろわれた。だが、僚機の望月曹長は未帰還のままに終った。
 「四式戦とF6Fの性能は同じぐらい。向こうは数が多く重層配備だから、すきを見て一撃をかけ、すぐ上昇するしか手がなかった」。苦しい戦いを味わった松山軍曹の、的を射た回想だ。

 一練飛の損失は操縦者三名と四式戦四機。飛行場も空襲を受けたため、以後は在地機を周辺の桑畑に引きこみ、網をかけて枝をかぶせることにした。2月19日、邀撃哨戒に出た五関伍長が墜落戦死して以後は、25日の機動部隊再来襲時の出撃(五機)でも、戦死者はなかった。

 二度目の厄日は、B-29に硫黄島からのP-51「マスタング」戦闘機が初めて随いてきた4月7日。山本中尉とその僚機、静かな熱血漢の賀集少尉は埼玉県上空に散り、三宅伍長は飛行場付近の上空で戦死した。三名ともB-29に体当り攻撃を加えたといわれる。

ウーム 陸軍の邀撃用新鋭機とも言える四式戦も、数的優位のグラマンF6Fやマスタングが相手ではかなり苦戦を強いられたようですね。

『敵機に照準』3:「二式飛行艇」
『敵機に照準』2:「二式水戦」「強風」
『敵機に照準』1:「雷電」

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック