『アースダイバー 東京の聖地』2

<『アースダイバー 東京の聖地』2>
図書館で『アースダイバー 東京の聖地』という本を、手にしたのです。
「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・
魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。



【アースダイバー 東京の聖地】


中沢新一著、講談社、2017年刊

<「BOOK」データベース>より
海民の二千年の知恵=築地市場、太古の無意識の現出=明治神宮。この二つの場所には、日本人の思考が「聖地」に見出してきた空間の構成原理が、ほとんど純粋な状態で実現されている。その二つの生きた聖地が、深刻な危機に直面したのである。金銭にかえられない「愛」と「富」のありか。建築家・伊東豊雄氏との対談2編収録。

<読む前の大使寸評>
「東京の聖地」という視点には、気がすすまないのだが・・・
魚河岸文化という切り口がいいではないか♪ということでチョイスしたのです。

rakutenアースダイバー 東京の聖地



魚河岸文化の原型を、見てみましょう。
p38~43
■大阪の魚河岸
 海に面した岸辺に、生魚の水揚げのできる、本格的な魚河岸が出現するのは、戦国時代後期の大阪においてである。ここで日本の魚河岸文化の原型がつくられた。

 一向宗の蓮如が、大阪上町台地の北端に本願寺(石山本願寺)を開いた。本願寺の周囲には多くの信者が移り住んできて、たちまち立派な寺内町ができていった。

 大阪は短期間のうちに、東洋一の大都市に成長していった。大小の商人が全国から、雲霞のごとく大阪に集まってきた。商家の使用人、もろもろのサービス業者、川と海と陸上の運輸業者、消費しかしない武士たちと、大阪は本願寺時代にもまして、本格的な近世都市としての骨格を整えていった。

■川の民
 この大阪城建設によっても、台地北端の土手下にあって、コイ、フナ、ウナギなど川魚を専門に扱う魚河岸は、以前と変わらない営業を続けることができた。それどころか、大阪の大都市化にともなって急増する人口を養うため、京橋魚河岸と橋向こうの天満青物市場は、さらなる拡充を求められた。とくに京橋鮒市場とも呼ばれた京橋の魚市場は、川魚だけでなく、海の魚貝類をも販売できる、より大きな市場への脱皮が求められた。
(中略)

 大阪に本願寺が建設されると、川の民たちはこぞって寺内町の周辺に集まってきた。そのうち、上町台地北端の坂下に、川魚専門の市場を開いた。ここから毎日、本願寺へ新鮮な川魚が、信心をこめた「ご喜捨」として届けられた。その残りを市場で寺内町の住人たちに売りさばくのである。売るほうも買うほうも、ともに気心のしれた一向宗門徒だったわけである。

■雑喉場魚市場
 その一向宗が、石山本願寺から撤退するにともなって、多くの門徒住民は大阪を離れることになった。ところが、すでにこの地で商いを成功させていた商人の多くは、大阪での営業を続けようとした。魚河岸の生魚商人も、大阪を去らなかった。秀吉が大阪城に入ると、さっそくの城の台所から役人が京橋魚河岸に派遣されてきた。役人は、海川の魚貝類のうちすぐれものを、新鮮なうちに城の台所に収める仕組みをつくれと、魚河岸の有力者たちに命じた。

 魚貝の納入といっても、百姓が米で税を納めるのと、基本的には同じ考えであるから、たとえ極上品をお城に納入したからといって、信じられないほどの格安でなければならなかった。そのかわり、納入業者としてのお墨付きをもらって、商人仲間のうちで一頭地を抜くことはできる。京橋魚河岸は、いっぽうでは秀吉や茶々の住む大坂城や伏見城にむけて、もう一方では庶民たちにむけて、二つの方向から魚河岸システムを構築する作業にとりかかった。
(中略)

 そこで京橋魚市場に対抗していた、海魚商人たちが目をつけたのが、船場の西の端の河口部にあった、雑喉場という埠頭であった。ここにつくられた新しい魚河岸こそ、江戸の日本橋魚河岸の原型をなす、雑喉場魚市場である。 


『アースダイバー 東京の聖地』1

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