『もっとも危険な読書』1
<『もっとも危険な読書』1>
図書館で『もっとも危険な読書』という本を、手にしたのです。
図書館大好きの大使としては、書評集もツボになるわけで・・・
高橋源一郎著のこの本など、そのツボに的中しているわけでおます。
島田雅彦さんの料理を、見てみましょう。
ウン この書評を読んで・・・
早速「ひなびたごちそう」を図書館で予約しようと思い立ったのである。
図書館で『もっとも危険な読書』という本を、手にしたのです。
図書館大好きの大使としては、書評集もツボになるわけで・・・
高橋源一郎著のこの本など、そのツボに的中しているわけでおます。
【もっとも危険な読書】 ![]() 高橋源一郎著、朝日新聞出版、2001年刊 <「BOOK」データベース>より スリル、緊張、集中、恐怖に近い感情の揺れ。やがて世界が一変する。静かで単調な表面の奥に、そんななにかを隠した本を読んでみたい。-読書の快楽を通して人と時代の機微をとらえた129篇のエッセ・クリティーク。 <読む前の大使寸評> 図書館大好きの大使としては、書評集もツボになるわけで・・・ 高橋源一郎著のこの本など、そのツボに的中しているわけでおます。 rakutenもっとも危険な読書 |
島田雅彦さんの料理を、見てみましょう。
p386~388 <料理の哲人・島田雅彦> 先日、島田雅彦氏が我が家を来訪され、その料理の腕をふるわれた。たぶん、その種類は十を遥かに超え、二十近くに達したのではあるまいか。味はもちろん、いうことなし。だが、いくら料理が美味しくても、なかなか出てこなかったり手際が悪くては問題だが、その点でも、島田氏の腕はまさに「ゴッド・ハンド」であった。 その島田氏の新刊『ひなびたごちそう』(朝日新聞社)を開いてみよう。これはまさに驚愕すべき料理本である。いままで、「食」のディレッタントたち(すなわち、非専門家たち)によって、美食や料理に関する多くの本が書かれてきた。その大半は「グルメ」と称する者たちの、味に関する個人的な感想であった。 いや、中にはかの檀一雄の『檀流クッキング』のように専門家を驚倒さえるようなものもあった。だが、それは結局のところ、「料理」という内輪の話にすぎなかったのではあるまいか。 「スキヤキは、肉や野菜を、焼く料理か、それとも煮る料理か? これはスキヤキの本質に関わる問いである。漢字では『鋤焼』と書き、鋤の上で肉、野菜を焼いたのが始まりだといい伝えられているから、焼く料理かと思えば、火にかけられた鍋の中ではどう見ても、肉や野菜が煮えている。牛肉や豆腐に、おまえは焼かれているのか、煮られているのか、と聞いても、答えは決まっている。…食われているのだ」 そもそもスキヤキに「本質」などあるのか? ただのグルメは「ない」と答えるであろう。なぜなら、グルメにとって料理とは、見て、口に入れて、その後、排泄されるべきものにすぎない。他の動物と違うのは、ただそのプロセスの途中に「味わう」という回り道があるだけだ。 しかし、島田氏にとって料理は違う。確かに、島田氏もまた料理を「味わう」。だがそれは舌によってだけではない、その脳によっても、なのである。そして、脳によって「味わう」時、料理はただ食べるだけの対象から、もっと別のものに、すなわち、それを食べる人間という存在の本質を照らし出す不思議な光源へと奇跡的な飛躍を行なうのである。 「このデンデ油はまた、確実に胸焼けを引き起こしてくれる。バイーア料理にはまる人も、最初に胸焼けの洗礼を受けている。鹿鳴館時代の日本人は、バターに対して、同様の反応を示した。まさにカルチュアショックとは、体に油が合わない事態なのだ」 ここで書かれているのは料理ではなく、文化そのものなのかもしれず。 「私の父は不器用の見本のような男で、料理も一切できなかったが、そうめんを茹でることにかけては天才だった。彼が茹でたそうめんの最初の一口は、プチッという音がするのだった。かすかに芯を残すように茹でていたせいだ。しかし、二分もすると、その芯は消え、音もしなくなる」 これは誰も書いたことのない、父と息子の物語の断片なのかもしれない。そう、「ひなびたごちそう」の食材は作家島田雅彦そのものなのである。 |
ウン この書評を読んで・・・
早速「ひなびたごちそう」を図書館で予約しようと思い立ったのである。
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