『神戸ものがたり』2

<『神戸ものがたり』2>
図書館で『神戸ものがたり』という本を、手にしたのです。
おお 神戸っ子でもある陳舜臣さんが案内する(昔の)神戸とはいかなるものか…期待できそうやでぇ♪


【神戸ものがたり】
ものがたり

陳舜臣著、平凡社、1998年刊

<「BOOK」データベース>より
【目次】
新しい土地/金星台から/異人館地帯/南北の道/布引と六甲/二つの海/軽い精神/あの町この町/そぞろ歩き/水と火/ふりむかず/一月十七日のこと

<読む前の大使寸評>
神戸っ子でもある陳舜臣さんが案内する(昔の)神戸とはいかなるものか…期待できそうやでぇ♪

rakuten神戸ものがたり



昭和13年の大水害が語られているので、見てみましょう。
p186~191
<水と火> 
 その日は学期試験があった。2時間目だったか、たしか英語の答案を書いていたが、ハイゼンたる豪雨がものすごい音を立てるので、ときどき不安に襲われて、ペンをとめたことをおぼえている。
 
 その時間の途中、すぐ試験をやめて雨天体操場に集合せよ、という緊急指示があった。 「ええセエや!」
 事がうまく行った場合、当時われわれはそう言ったものだ。学校は会下山の高台にあり、下界のようすはよくわからない。だから生徒たちも、どうやら試験が中止になるらしいというので、はしゃいでいたのである。檀にあがった教頭が、真っ青な顔で言った。
 
 「なにを騒いどる! 街がどうなっているか知っとるのか? 大へんなことになったのだぞ」
 ふだんは温厚だった先生が、いつになく癇のたかぶった態度をみせたので、筆者はドキリとした。ほかの生徒たちもおなじだったとみえて雨天体操場はシーンとなった。

 そこでわれわれは山津波のことをきかされた。帰途を遮断された地域の説明があった。そこから通っている生徒は学校に残れという。住吉のほうから通っていた友人は、それをきいて泣きだしそうになった。
 「まだはっきりしたようすはわからないが」
と、教頭はことばを結んだ。

 はっきりわからないことばが、いちばん不安だった。家はどうなったのだろうか? とにかく、海岸通り方面は、道を選んで行けば帰れるかもしれない、ということだった。

 学校のすぐ下の市電上沢通りはすでに通れない。そのあたりの水がひけば、兵庫駅に出て、高架線の上を歩いて帰る方法がある。しかし、当分見込みがないので、会下山から湊川公園の北を大きくまわって、市電山手線に出た。

 そこは腰まで水である。ふといロープが張り渡されてあって、われわれは下半身水浸けのまま、ロープにつかまりながら東へ進んだ。無我夢中なので、そのとき雨が降っていたかどうか、記憶にない。どうせ全身濡れねずみなので、雨が降っていてもどうということもなかったので、おぼえていないのだろう。

 おぼえているのは、濁流の色である。ふと黄河の濁流もこんな色をしているのかな、と思った。濃い粘土色だった。濁流のところどころで糞尿のにおいがしていたこともおぼえている。

 花隈の坂もまだ水が流れていたので、路地を伝っておりた。それでも路地にあふれた水は、踵までつかった。花隈の芸者であろうか、着物の裾をからげて、白い足を出して水のなかを歩いている女のひとをみかけた。赤い湯文字と白い足との対照が目に焼きついたが、ホッとしたかんじだった。

 中学3年だから、小学生でそのあたりをうろついていたころとちがって、なまめかしさがわかったのであろう。だがそれよりも、花隈にはいると、もう家は近いのだという安堵感のほうが、むろんずっとつよかった。
 海岸通りは、まだ膝のあたりまで水があったように思う。ようやく家にたどりついたときは、からだがガタガタふるえてならなかった。

 筆者の家は、1階が煉瓦造りの倉庫であった。鉄の扉をしめたが、すきまがあるので、倉庫内の商品はダメだろうとあきらめていた。しかし、水が退いてから扉をあけてみると、倉庫のなかはウソのようになんともなかった。

 山をおし崩してあふれおちた濁流は、泥をまじえた粥のような水で、倉庫の扉のすきまに、その泥がはりついて、まるでセメントを塗ったような状態になっていた。そのため水は内部にはいらなかったのである。

 さんざん苦労をして家にたどりついたとはいえ、引率されて比較的安全な道をえらんで帰ったのである。
 「えらいこっちゃ」
とは思ったが、この日の山津波が予想以上の惨状をもたらしたことについては、新聞の報道で知った。またそのあと、復旧作業にかり出されて被害地のありさまをまのあたりに見て、あらためて驚いたものだ。

 六甲の南がわの河川は26本あり、傾斜が急で水源から河口までがごく短い。降った雨は3時間でもう河口に達してしまう。典型的な暴れ川だが、あのときはそれがいちどに暴れだしたのである。死傷行方不明3700人、流出もしくは全壊家屋約7000、浸水家屋22万戸にのぼった。とくにひどかったのは、川の流域、あるいはかつて川であったところだ。明治初年、生田川を埋めて加納町とし、別に新生田川をつくったことはまえにのべた。その旧生田川の加納町は、市内でも最も甚大な被害を受け、そごう百貨店前は激流が吠え狂う状態だった。宇治川も凄惨なもので、三越前に家具や畳にまじって、死体が流れていたという。

 その年は夏休み返上で、復旧作業の勤労奉仕に明け暮れた。布引きの滝の麓では、すっぽりと人家の屋根まで埋めた土を掘り除けた。死体が出てくるかもしれないという話なので、
 「どうか死体にあたりませんように」
と、祈りながら土を掘ったことを思い出す。今日は加納町、明日は長田と、その夏は市内の中学生が総出で泥と埃にまみれて復旧にあたった。いまでも、かつて勤労奉仕に行った土地を通ると、あのころを思い出す。


ウーム 大使には、語られている場所すべてに土地勘があるので、ものすごく怖いのでおます。

『神戸ものがたり』1

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