『中国行きのスロウ・ボート』がつなぐ輪R1 ③

<『中国行きのスロウ・ボート』がつなぐ輪R1>
図書館で借りた小川洋子著『博士の本棚』という本を読んでいるのだが…
このところ集中して借りた本のなかで、『中国行きのスロウ・ボート』がつなぐ輪が見られるので、並べてみます。

・『中国行きのスロウ・ボート』1997年刊
・『博士の本棚』2007年刊
・『おおきなかぶ、むずかしいアボカド』2011年刊
・『注文の多い注文書』2013年刊
・『みみずくは黄昏に飛びたつ』2017年刊

しかし、まあ…
村上作品を信奉する女性作家に囲まれる村上さんは、作家冥利につきるようでおます♪

川上

R1:『おおきなかぶ、むずかしいアボカド』を追記



【中国行きのスロウ・ボート】
中国

村上春樹著、中央公論新社、1997年刊

<「BOOK」データベース>より
青春の追憶と内なる魂の旅を描く表題作ほか6篇。著者初の短篇集。
【目次】
中国行きのスロウ・ボート/貧乏な叔母さんの話/ニューヨーク炭鉱の悲劇/カンガルー通信/午後の最後の芝生/土の中の彼女の小さな犬/シドニーのグリーン・ストリート

<読む前の大使寸評>
追って記入

rakuten中国行きのスロウ・ボート




【博士の本棚】
博士

小川洋子著、新潮社、2007年刊

<「BOOK」データベース>より
本という歓び、本という奇跡。『博士の愛した数式』で第一回本屋大賞を受賞した著者が、大好きな本の数々を紹介しつつ、本とともに送る生活の幸福を伝える極上のエッセイ。
<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると、大使は書名も著者名も知らない洋書の数々、村上春樹の作品などが出てくるではないか…
これは期待できるかも♪

amazon博士の本棚
『博士の本棚』1byドングリ



いよいよ真打登場ということで…村上さんのエッセイ集を取り上げます。

【おおきなかぶ、むずかしいアボカド】
アボカド

村上春樹著、マガジンハウス、2011年刊

<「BOOK」データベース>より
アンアン連載の人気エッセイ、村上春樹のテキストと大橋歩の銅版画がつくり出す居心地のいい時間。野菜の気持ち、アンガー・マネージメント、無考えなこびと、オキーフのパイナップル、あざらしのくちづけ、うなぎ屋の猫、決闘とサクランボ、ほか全52篇。

<読む前の大使寸評>
おお 村上さんのエッセイ集やないけ♪…しかも比較的に新しい本で、これはいけるかも。

amazonおおきなかぶ、むずかしいアボカド

『おおきなかぶ、むずかしいアボカド』2:医師なき国境団





【注文の多い注文書】
注文

小川洋子×クラフト・エヴェング商会著、新潮社、2013年刊

<「BOOK」データベース>より
【目次】
人体欠視症治療薬/バナナフィッシュの耳石/貧乏な叔母さん/肺に咲く睡蓮/冥途の落丁

<読む前の大使寸評>
ぱらぱらとめくると、クラフト・エヴェング商会の通信歴のような構成となっていて、写真の挿入も多く…
装丁や編集が素晴らしいでぇ♪

rakuten注文の多い注文書
『注文の多い注文書』4:『貧乏な叔母さん』の納品書




【みみずくは黄昏に飛びたつ】
川上

川上未映子×村上春樹著、新潮社、2017年刊

<商品説明>より
ただのインタビューではあらない。『騎士団長殺し』の誕生秘話、創作の極意、少年期の記憶、フェミニズム的疑問、名声と日常、そして死後のこと……。誰もが知りたくて訊けなかったことを、誰よりも鮮烈な言葉で引き出した貴重な記録。11時間、25万字におよぶ、「作家×作家」の金字塔的インタビュー。

<読む前の大使寸評>
図書館予約して、(予想外に早く)約3ヵ月後にゲットしたわけだが…
発売後ただちに予約したことと、神戸市が副本を6冊買ってくれたおかげでしょうね♪

<図書館予約:(5/30予約、8/26受取)>

rakutenみみずくは黄昏に飛びたつ
『みみずくは黄昏に飛びたつ』7byドングリ




つまり、『中国行きのスロウ・ボート』をめぐって、村上春樹を中心にした、小川洋子、川上未映子という(うらやましいような)華やかな輪が見られるのだが…
この村上さんの短編集のインパクトは、大きかったようです♪

『博士の本棚』から、小川洋子さんの想いを見てみましょう。
p273~275
<『中国行きのスロウ・ボート』を開きたくなる時> 
 自分が敬愛する作家の、最も好きな作品が短篇である場合、何かと具合のいいことが多い。もちろん長編であっても一向に構わないのだが、短篇ならばふと思い立った時、最初から最後までいつでも通して読み返せる。あるいは全文を書き写し、より深く小説の奥へ分け入って、言葉の一個一個を味わい尽くすこともできる。

 村上春樹作品の中で、私がそういう読み方をしているのは『中国行きのスロウ・ボート』に収められた、『午後の最後の芝生』である。私はその文庫本を仕事机の片隅に常に置いておき、小説を書くのにうんざりしたり、目がチカチカして頭痛がしたり、ただ意味もなくぼんやりした気分になった時、手に取ってページを開く。

 自分が作家になる前は、当然のことながら私は読者の立場としてその小説を読んでいた。しかし今は、書き手として向かい合っている。純粋な読み手でいる方が、読書は楽しめるという人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。自分も小説を書くようになったことで、『午後の最後の芝生』がいかに豊かな物語であるか、より実感を持って知ることができた。と同時に、これほどまでに愛される作品を書いた村上春樹に、奇妙な嫉妬を感じたりもしている。

 『中国行きのスロウ・ボート』は、村上春樹の最初の短編集である。処女作にはすべてが含まれる、とよく言われるが、確かにこの短編集には、現在にまで至る彼の世界のあらゆる要素が描かれている。

 『羊をめぐる冒険』の物語が膨張してゆく力、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の自己解離への怖れ、『TVピープル』の硬質さ、『ねじまき鳥クロニクル』の徒労感、『スプートニクの恋人』の空虚さの永遠性…。皆揃っている。あるものは正々堂々と、あるものは言葉の蔭にひっそりと身を隠すようにして、スロウ・ボートに乗り込んでいる。
 『午後の最後の芝生』は大学生の男の子が、アルバイトで芝を刈る話である。たったそれだけのことだ。

 早速お金を稼ぐ必用がないことに気づいた彼は、最後のバイトで、風変わりなしゃべり方をする中年女の家の芝を刈る。完璧な仕事をこなしたあと、ティーン・エイジャーの女の子の部屋と思われる一室へ案内され、感想を求められる。

 粗筋を説明しはじめると途端につまらなくなる小説は、いい小説だ。芝生を刈るだけの話がベストワンなんて、これほど明確に小説というジャンルの魅力を証明できる事実はない。
 これは記憶の話でもある。最後の芝刈りの記憶が、ぐったりとして柔らかい子猫に姿を変えて思い起こされる。またガールフレンドとのセンチメンタルな別れの話も出てくる。「僕」は無意識的にその別れと距離を保とうとしているが、どうしても誤魔化しきれない疼きを感じている。

 そして全篇を覆っていうのは、死の気配だ。死者は一人も登場しない。なのに誰もその気配から逃れることはできない。

 最も肉感的で存在感のあるバイト先の中年女性が、実は最も濃い死後の世界の匂いを漂わせている。感情を排除したぶっきらぼうな物言い、ピクルスを齧る音と、ウォッカ・トニックのグラスを握る指輪のない手には、誰かを失った哀しみがしみ込んでいる。彼女と同じ部屋に立ってしまったために、「僕」は半ば強引に、ほとんどそうとは気づかないうちに、こちら側と死との境目に、身を置くこととなる。

 「…長い小説を書いているとき、僕はいつも頭のどこかで死について考えている」と村上春樹は言う。だから私は小説を書いていて訳もなく哀しくなった時、『中国行きのスロウ・ボート』を開きたくなるのだろうか。


もう一つ、見てみましょう。
p239~241
<死の気配に世界の深み知る> 
 1984年から2年間だけ、ある医科大学の秘書室に勤めた。論文を清書したり、郵便物の整理をしたり、会議にお茶を出したりするのが仕事だった。

 自分の能力を生かせる、もっと創造的な仕事がしたい、などとは少しも思わなかった。自分に生かすべき能力がないのはよく分かっていた。ただ、大学時代には注意を払いもしなかった。ささやかな現実の側面(例えば、書類の上下に何ミリ余白を空けるか、あるいは、学会出席の返事をタイプするのに何のエレメントを使うか…)に、一日中神経を尖らせていなければならないことが、苦痛だった。

 仕事が終わって家に帰ると、村上春樹の『中国行きのスロウ・ボート』を何度も読み返した。神経にこびりついた現実を払い落とし、伸びやかに呼吸するためには、言葉の世界に身体を浸す必用があった。

 その短編集には一切、啓示も教訓も含まれていない。また、なにものかを象徴もしていない。僕は中国人の少女を間違った電車に乗せ、彼女は犬の死骸と一緒に埋めた貯金通帳を掘り起こす…。そこにあるのは、ただの物語、それだけだった。

 いつまでたっても仕事には慣れなかった。仕事の内容自体は単純なのだから、余計なことは考えず、条件反射のように作業をこなしてゆけばいいのだが、常に居心地の悪さがつきまとっていた。

 ある日、教授からカルテの束を渡され、医事課へ持ってゆくよう言われた。農薬を飲んで自殺した人のカルテが3冊あった。故意に見たわけではないが、防ぎようもなく視界に飛び込んできたのだ。

 自分をがんじがらめにしている書類やタイプライターという現実の向こうには、死が存在していた。毎朝一番にシューターで送られてくる手術予定表にも、清書する論文の中にも、死はあふれている。私の注いだコーヒーを飲む教授の手は、ついさっき、誰かの内臓を切り取っていたかもしれない。

 秘書室と病室は遠く離れていた。私が直接患者さんと向き合うことはなかった。それでも死の感触は、すぐそばにあった。
 そうした発見は私を憂鬱にしなかった。むしろ自分が今直面している世界は薄っぺらなものではなく、深い意味をたたえているのだと、証明してくれているように思えた。

 やがて私は『中国行きのスロウ・ボート』に立ち込めているのもまた、死の気配だと気づいた。友人の葬式のために喪服を借りる話『ニューヨーク炭鉱の悲劇』にも、芝生を刈るアルバイトの話『午後の最後の芝生』にも、それは等しい濃度で漂っている。リアルな生者の息遣いの中にさえ、滅びゆく予感の影が忍び寄っている。なぜなら村上春樹が描くのは、対立する生と死ではなく、生と死の平等な往来であるからだ。

 秘書室を辞めたあと倉敷の田舎に引っ越し、小説を書くのに没頭した。『中国行きのスロウ・ボート』は、もしかしたら自分にもいい小説が書けるんじゃないだろうか、という錯覚を呼び起こした。錯覚と希望を混同するくらい愚かにならなければ、誰も小説など書けないだろう。

 デビュー作が文芸誌に載るまで、そこから3年かかった。そして私は今でも書き続けている。あの時呼び起こされた錯覚を、ずっと変わらず抱き続けている。

村上さんが『中国行きのスロウ・ボート』について述べています。
最初に書いたふたつの短篇小説『中国行きのスロウ・ボート』と『貧乏な叔母さんの話』はどちらも先にタイトルができて、そのあと、こういうタイトルで短篇小説を書くとしたら、どんな話になるだろうと考えたとのこと…ムム ええかげんにせーよ。

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