『蜜の流れる博士』

<『蜜の流れる博士』>
図書館で『蜜の流れる博士』という本を、手にしたのです。
目次を見てみると、南方熊楠をメインテーマに据えた随筆のようである。
ぱらぱらとめくると「ブレードランナー」を絡めて博物学、民俗学を語ったりして・・・ええやんけ♪



【蜜の流れる博士】
中沢

中沢新一著、せりか書房、1989年刊

<「BOOK」データベース>より
古書につきデータなし

<読む前の大使寸評>
目次を見てみると、南方熊楠をメインテーマに据えた随筆のようである。
ぱらぱらとめくると「ブレードランナー」を絡めて博物学、民俗学を語ったりして・・・ええやんけ♪

amazon蜜の流れる博士


中沢さんがジャングルを語っているので、見てみましょう。
p184~187
<ジャングル・ブギ>
 日本人もフランス人も、もともと農耕の民である。農耕(アグリカルチャー)が文化(カルチャー)をつくってきたのだ。だから、中国の農民の気持だってすこしはわかる気がするのだが、こんな風に大地のすみずみまで耕しつくさなければおさまらないような、彼らの猛烈な合理的精神には、どこかついていけないように思えてしまう。

 私たちはどこか不徹底なもののほうを愛している。そのために、じぶんたちのまわりに雑木林だとか、やぶだとか、未耕作の空地だとかを保存してきた。それどころか、もっと大掛かりな未耕作地を、神聖な森、神秘的な黒い神の森としてところどころに残してきたのだ。

 私たちはこういう場所へでかけると、ほっとする。こういうやぶにまかせた境界区分を、手つかずのままに放置しておけるおおようさみたいなものが、私たちの文化をつくってきた。徹底的に合理的、徹底的に理性的になることができない。いや、そうしてはいけない。それをやってしまったら、じぶんたちのまわりから神もいなくなってしまえば、くつろいだ落ちつきもなくなり、暮らしはぎすぎすしたものになってしまうだろう。
(中略)

 そのために、日本人とかヨーロッパ人とかは、中国人の眼から見れば、いつだってなさけない非合理主義の部分をかかえていたんじゃあないだろうか。中国人は大地の上から、見とおしの効かない闇を追放しようとする。ところが、私たちときたら、そういう闇だとか、黒い見とおしの効かない森だとかがなければ、やっていけないのだ。

        3
 でも、そんなことは四季の変化のある、わりと温暖な地方に住んできた人だから言えるのかも知れない。見とおしの効かない植物の森は、熱帯のぶ厚いジャングルのただなかで暮らしてきた人たちにとっては、もっと違った意味をもっていたはずだ。

 まわりじゅうに、見とおしの効かない深いジャングルの闇がある。人間にできることといったら、ジャングルをばっさいして小さな空き地を切りひらいて、そこに自分たちの住む生活の空間をつくったり、ジャングルのなかに細い細い道をつけたり、そこに火をはなって、キャッサバやタロイモを植えつけるためのちっぽけな焼き畑を開いたりするぐあいのことだ。でもそんなもの、ジャングルを上空から撮った航空写真にもうつっていないほど、ささやかなものにすぎない。

 そこでは、理性の努力の大部分は、自分をとりかこむぶ厚い見とおしの効かないジャングルのなかに、小島のような幾何学的な小空間を切り出してくることにそそがれる。そうやって切り出されてきた幾何学の有効な空間、人の住む村の空間には、理性のつくりだすことのできるありとあらゆるものが、つめこまれる。ジャングルのなかに、理性の密集地帯が、孤立してあらわれるのだ。そのために、ジャングルに生きてきた人たちは、民俗学者がすっかりうれしくなってしまうほど濃厚な神話の世界をつくりあげている。

つまるところは・・・
早すぎた文明を持つに至った漢族が、女真族やツングースたちの神話や住環境を蔑視したのがよくなかったようですね(イカン また大使のバイアスが出てしまったか)

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