『ひとりでは生きられないのも芸のうち』

<『ひとりでは生きられないのも芸のうち』>
図書館で『ひとりでは生きられないのも芸のうち』という本を手にしたのです。
内田先生のエッセイ集を適当な箇所でパッと開いて、読みふけるのは為になるし・・・ええでぇ♪


【ひとりでは生きられないのも芸のうち】
内田

内田樹著、文藝春秋、2008年刊

<「BOOK」データベース>より
社会のあらゆる場面で“孤立化”が進むいま、私たちはどう生きるべきか?「自己決定・自己責任」の呪縛を解く。
【目次】
1 非婚・少子化時代に/2 働くということ/3 メディアの語り口/4 グローバル化時代のひずみ/5 共同体の作法/6 死と愛をめぐる考察

<読む前の大使寸評>
内田先生のエッセイ集を適当な箇所でパッと開いて、読みふけるのは為になるし・・・ええでぇ♪

rakutenひとりでは生きられないのも芸のうち


言語に対するおせっかいな制限を、見てみましょう。
p140~143
<配架の愉しみと語彙について>
 子どもの語彙の貧困は、その子どもの生活圏でゆきかう言語の貧困をそのまま映し出している。
 それは子ども自身の責任ではない。
 日本語が痩せているということが全ての問題の底流にある。

 それはメディアに執筆しているときに痛感することである。
 私の原稿はしばしば「むずかしい漢字が使ってある」とか「なじみのない外来語が使ってある」という理由で書き直しを命じられる。

 私は原則として修正に応じない。
 読者に読めない漢字があってはメディアとしては困るんですと言うけれど、そのロジックを受け容れてしまうと、メディアはその読者のうち最低のリテラシーを持つものの水準に合わせて使用言語を絶えず下方修正しなければならなくなるからである。

 現にそうやって戦後日本のメディア言語は痩せ細ってきた。
 例えば、「語彙」という言葉を使わせてくれないメディアがある。
 これは「語い」と書かなければならない。
 私は「語い」とか「範ちゅう」とか「破たん」というような表記を見ると、肌に粟を生じる。

 そういう文字を見ても「平気」というような言語感覚の人間が使用文字について公的な決定件を持っている。
 以前に「はなもひっかけない」と表記した原稿を「身体部位の欠陥にかかわる表記はやめてください」と差し戻されたことがあった。「はなもひっかけない」というのを「鼻が低いので、ものがひっかからない」という意味だと解釈したらしい。

 「はな」は「鼻」ではなく「洟」である。
 「はなみずもひっかけてもらえないくらいに、てんで相手にされない」という意味である。
 その程度の国語力の人間が言語表記について適否の任に当たってよろしいのであろうか。

 「片手落ち」という表記も「身体障害者差別になるから」と拒否されたことがあった。「短見」も「耳を聾する」も「障害者差別になるから」という理由でいずれ拒否されるであろう。
 「狂人」や「白痴」や「気違い」などの語はそもそもATOKに登録されていない。

 「政治的に正しい言葉づかい」をメディアや文科省は久しく唱道してきた。
 そのこと自体に文句はない。
 けれども、それはただ「使える言葉をひたすら減らす」というかたちでしか行われてこなかった。
 「美しい言葉」「響きの良い言葉」「意味の深みをたたえた言葉」を増やすという方向には、戦後日本のメディアも教育もほとんど何のアイディアも持たなかった。
 日本語の痩弱に歯止めがかからないのは、「言葉なんかいくら使用制限しても日常生活に少しも不便はない」という「生活言語」の全能への信仰が現代社会に瀰漫しているからである。

 これもおそらく新聞に投稿したら「び漫」と直されてしまうのであろう。
 けれども、「瀰漫」は「蔓延」や「波及」や「一般化」とはニュアンスが違う。
 どのような他の語をもってしても「瀰漫」の語のはなつ「瘴気」に類したことは表すことはできない。

 この「瘴気」だってそうだ。
 「毒気」では言い換えることができない。
 これを「しょう気」と書き直されたとき、誰がその原義にたどりつけるであろうか。
 だが、現にそのようにして、メディアは日本語の語彙を減らすことに全力を尽くしている。
 それは「最もリテラシーの低い読者」の読解力に合わせて無制限に下方修正を繰り返すということを意味している。


 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック