『縄文農耕の世界』3

<『縄文農耕の世界』3>
図書館で『縄文農耕の世界』という新書を手にしたのです。
おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪
照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)


【縄文農耕の世界】
縄文

佐藤洋一郎著、PHP研究所、2000年刊

<「BOOK」データベース>より
 農耕文化は従来弥生時代の水田稲作の渡来が起源とされてきた。だが三内丸山をはじめ縄文遺跡で発掘されるクリは栽培されたものではないか?縄文人は農耕を行っていたのではないか?
 著者によれば、「ヒトの手が加えられるにつれ植物のDNAのパターンは揃ってくる」という。その特性を生かしたDNA分析によって、不可能とされていた栽培実在の証明に挑む。
 本書では、定説を実証的に覆した上で、農耕のプロセスからそれがヒトと自然に与えた影響にまで言及する。生物学から問う新・縄文農耕論。

<読む前の大使寸評>
おお 縄文農耕か・・・大使にとっての古代のロマンではないか♪
照葉樹林文化とか、南海の道とか・・・とにかく漢族の影響を排除したい訳でおます(コレコレ)

なお、著者は『ジャポニカ長江起源説』を著わしたイネ考古学の権威とか。

rakuten縄文農耕の世界


「畝を伴うと見られる畑」の発掘事例が見られるようになったそうです。

<ヒトに撹乱されてできた耕地>p171~173
 栽培行為の広まりによって出現した新たな生態系が農耕のための土地、つまり耕地である。栽培される植物が何であったかによってその生態的な性格に違いはあろうが、耕地は基本的にはヒトによって撹乱されてできた生態系である。

 クリのような木の仲間の場合には、耕地は耕地といっても里山の一角の木を払った程度の極めて粗放で手のかからないものであったろう。しかし毎年種子で繁殖する草の仲間、例えば穀類などの場合には、新たに耕地を開くのも、開いた耕地を維持するのも、それなりのエネルギーを要する作業を伴ったに相違ない。

 もしその類型を現代に求めるならば、東南アジアの山地部に今も残る焼畑以外に適当なものはないように思われる。

 東南アジアの焼畑については佐々木高明さんの名著『稲作以前』に詳しいが、その特徴は、火入れをして木や下草を焼き払い、その灰分を肥料とすること、また肥料分が切れてきたころにはその農地を放棄し(つまり休耕し)、休耕して森に戻っていた土地を新たに開墾することが特徴である。休耕することで耕地であった土地では遷移が進み、やがては森(里山)に戻って行く。縄文時代の農耕も、おそらくこれとそう大きく違わない方法で農耕が行われていた可能性が高いといえよう。

 ところで縄文農耕に関係して畑作における畝について触れておきたい。畝とはいうまでもなく畑の土を列状に寄せて作る暫定的な構造物である。縄文農耕に対する関心が考古学の間でも高まりつつあるなか、最近各地で「畝を伴うと見られる畑」の発掘の事例が相次いだ。

 畝状の遺構があればそれは畑の跡である可能性が高いということであろう。私もその一部を見せていただいたが、率直なところ、畝状の遺構のすべてが真に畝であったかどうかの自信はない。というのも、畝を立てる作業はかなりの集約的な作業であり、焼畑地帯など粗放な畑作の場ではあまり畝を見ないからである。畝はもともと、水田の裏作など、乾燥を好む作物にはあまり好適でない環境で立てられるものである。

 縄文農耕を畑作の類型と考えるのはおそらく正しいが、それは現代の私たちが考えるよりはだいぶ粗放なものであり、畝立てのような高度な作業を伴ったかどうかはわからない。畝状遺構の存在を畑の存在とするにはなお検討が必要であるように思う。

 さて、耕地の主人公は栽培食物である。しかし耕地には栽培植物以外の植物が入り込んでくる。後にのべる雑草もそのひとつである。ここに除草という作業が生まれる必然性が生じるが、耕地が耕地としての性格をはっきりさせてくるにつれ、雑草もまた雑草としての性格を一層明確にしてくる。そしておそらく、害虫や病原菌もまた、耕地に棲みつく新たな生物として登場することとなった。


『縄文農耕の世界』1
『縄文農耕の世界』2

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