『言葉を離れる』2

<『言葉を離れる』2>
図書館に予約していた『言葉を離れる』という本をゲットしたのです。
この本は2015年「講談社エッセイ賞」受賞作とのこと・・・・期待できそうやでぇ♪


【言葉を離れる】
s横尾

横尾忠則著、青土社、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
小説と画家宣言、少年文学の生と死、映画の手がかり…観念ではなく肉体や感覚の力を信じ続けてきた画家が、言葉の世界との間で揺れ動きながら、自伝的記憶も交えて思考を紡ぎ出す。

<読む前の大使寸評>
2015年「講談社エッセイ賞」受賞作とのこと・・・・期待できそうやでぇ♪

<図書館予約:(8/17予約、8/23受取)>

amazon言葉を離れる


ゴーギャンの「遺言」あたりを見てみましょう。
p171~178
<運命を手なずける>より
 運命に関してはしばしば語ってきましたが、何度語っても考えても自分の運命についてはゴーギャンの死の6年前に描かれた《われわれは何処から来たのか、われわれは何者か、われわれは何処へ行くのか》という作品の題名同様、疑問ばかりが残るのです。ゴーギャンにとってこの主題は自らに対すると同時に人類へのメッセージでもあったようです。彼はこの作品の主題は「福音書にも匹敵すべき」ものと述べており実質的に彼の「遺言」でもあったように思われます。

われわれ
(中略)

 三島さんは文学者でありながら言葉を信じてないと言っていました。言葉は肉体から発したものですが絵画ほどには肉体的ではありません。絵画は言葉ではありません。絵画は肉体です。文学は論理的で観念的です。いくらでもウソもつきます。絵はウソをつけないのです。もしウソをついて絵を描いたとしても、「ウソをついた絵」としてすぐバレてしまいます。

 肉体がウソをつけないように絵は絶対ウソがつけない、故に絵は恐ろしいものです。そうすると運命はウソをつくのでしょうか。もし運命がウソをつけば人間は破滅してしまうような気がします。では破滅した人生の運命はウソをついた結果なのでしょうか。

 ぼくは運命は何か生まれる以前に約束された契約のような気がするのです。その約束をちゃんと魂が記憶していてその記憶が肉体の内なる声としてその人につぶやくように思うのです。心の声ではなく、あくまでも肉体をメディアにした魂の声です。

 魂を源泉に肉体を経由して発せられた声こそ約束された運命の声だと思います。その運命の声を聞ける人と、そうでない人がいるように思います。その内なる声(運命の声)に忠実に従った者は運命の路線から踏みはずすようなことはないのではないでしょうか。
(中略)

 ではゴーギャンは破滅人生を送った芸術家でしょうか。そうではないと思います。むしろ魂の声に従った生き方をした芸術家です。彼の芸術は彼自身も気づいていたと思いますが、人類のためにあの「遺言」の作品を描かされたように思います。それはゴーギャンの使命でもあるからです。天が与えた使命を遂行した結果が彼のあの作品です。


『言葉を離れる』1

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