『日本人と台湾』

<日本人と台湾>
図書館で『日本人と台湾』という本を手にしたのです。
台湾好き、中国嫌いの大使が、かなりの偏見を持って読んでみようと思ったのです♪


【日本人と台湾】
日本人

歴史REAL編集部、洋泉社、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
近年、より交流が活発となっている日本と台湾。両国は、なぜ東アジア随一の友好関係を築くことができたのか―。歴史をひもとけば見えてくる日台関係の今!後藤新平、八田與一、新渡戸稲造…近代台湾を築いた日本人たちの足跡。

<読む前の大使寸評>
台湾好き、中国嫌いの大使が、かなりの偏見を持って読んでみようと思ったのです♪
台湾に関しては、中国政府が版図に含むと固執するわりに、歴史的、地理的文献さえ無かったようですね。

amazon日本人と台湾


中台関係の歴史認識あたりを見てみましょう。例のとおり中国政府が唱えるご都合歴史認識ではありますが。
p52~54
<中国の文献に台湾が登場するのはいつ?>より
■台湾と沖縄を混同していた?
 中国政府は「台湾は古来中国の不可分の領土」と定義するが、その「古来」とはいつ以来なのか、あるいは中国人は台湾の島の存在をいつ認識したのかは、台湾の歴史を知る上では重要だ。そこで台湾が中国の文献にいつから登場したかを見てみよう。

 これについて中国では、『書経』の一篇で最古の地理書とされる「ウ貢」(成立年代不詳)には、すでに記載があるとされる。「島の夷人は勅命を受けると柑橘類を貢ぎに来た」という記述の「島」が台湾だというのだ。だが、それは『重修台湾府志』(1747)に見られる解釈を踏襲したもので、推測の域を出ていない。

 3世紀の『三国志』「孫権伝」には、230年に呉の孫権が派遣した部隊が「夷州」という島から数千の住民を連れ帰ったとの記述があり、そこが台湾だというのも中国では定説だ。夷州の地理的位置や気候、住民の風俗などは、地方誌『臨海水土異物志』(264)にも記載され、台湾と思わせる部分もあるが、やはり確実な証拠はない。

 7世紀の『隋書』「東夷列伝」には「琉求国」が隋への帰順を拒否したため、煬帝の武将が攻撃し、男女数千人を連行したという記述があり、この「琉求」も台湾を指すとされる。ちなみにその島は建安郡(現福建省)の東方で、船で5日の距離という。しかし中国以外の国では、「琉求」は琉球だとする説も有力だ。

 中国は特に夷州、琉求への遠征の記録を根拠に、台湾を「古来中国の不可分の領土」と強調するが、その論には無理があるのはいうまでもない。以上のように台湾を確実に台湾と断言できる記述がないのは、その当時はまだ、台湾を統治していなかったばかりか、その存在すらよくわかっていなかった証である。対外交易が盛んになった唐、宋の時代ですら、この島の存在を明確に示す文献はない。

■明朝の時代には文献に登場
 台湾が漢人の航路の指標として、その位置をはっきり認識したのは、明国が1404年に琉球王国を冊封し、福州と琉球の間を往復するようになってからと思われる。当時、漢人は琉球国を「大球国」と呼び、台湾を「小球国」と呼称した。なぜならそのエリアでは、台湾が琉球の次に大きい島に見えたからだ。

 「小球国」の名が初めて現れるのは1395年の『皇明祖訓』においてだ。同書はその島について、「中国とは往来がなく、朝貢したこともない」と記している。疑いなく台湾を記載したといえる文献は、これが最古ではないだろうか。その後も琉球に向かう使節の航海日誌などでも「小球国」の名はたびたび記載される。

 台湾が初めて中国の版図に入るのは清国時代の1683年だ。清朝官修の地理書『大清一統志』(1744)にも、「台湾は古来荒服の地で中国に通じず、東番と呼んだ」とある。そして「明の天啓年間、オランダに占領されたが、日本に属していた」とも。台湾を日本領だったと誤解したことも、それまで中国がほとんど台湾に関心を寄せていなかったことを物語っている。


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