『クジラの文化、竜の文化』4

<『クジラの文化、竜の文化』4>
図書館で『クジラの文化、竜の文化』という本を手にしたのです。
日中比較文化論と聞けば・・・大使がついヒートアップする事柄でおます。


【クジラの文化、竜の文化】
日中

大沢昇著、集広舎、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
東アジアと西欧の文明を吸収しクジラのように独特の進化を遂げた日本文化、東西南北の民族と混交することでキメラ(合成体)的な相貌をもつ中国文明ー
【目次】
序章 「支那」と「小日本」-互いの誤解の始まり/第1章 「顔」と「国の形」/第2章 「水の文化」と「火の文明」/第3章 どちらも「現世主義」だが…/第4章 明るい競争社会の裏側/第5章 「クジラの文化」と「竜の文明」

<読む前の大使寸評>
日中比較文化論と聞けば・・・大使がついヒートアップする論争でおます。

rakutenクジラの文化、竜の文化

 
読みどころが多い本であるが、日中の国民性の違いあたりを見てみましょう。
p164~169
<二千年の歴史をもつ「忽悠」>より
 コミュニケーションにおいて、日本語が言葉を使わない「以心伝心」から、言葉を拒否する「問答無用」に極端に振れ、言語による意思疎通よりも「場」の雰囲気を重視するものなら、中国語はどうであろうか?

 先に挙げた清水特派員の体験や、「上訪」の事例を見ても分かるように「意見表明」「自己主張」を重視する国民性は、それを示す面白い言葉を生んだ。それは「討価還価」と「忽悠」である。

(中略)
 「「忽悠」とは何か? 本来の意味は、絶えず揺れ動くこと、たとえば漁船が波の上で、木の葉が風の中で揺れるのを指す。その後、中国の東北地方で流行する俗語となった。俗語としての「忽悠」は、同じ発音の「胡誘」から来ている。勝手に誘導するという意味だ。流行病のウィルスが突然変異を起こすように、忽悠という言葉も、目がくらむほど多様な意味を派出させた。

 大言壮語すること、大衆の歓心を買うことも忽悠と言う。巧みに罠を張ること、人をペテンにかけることも忽悠と言う。さらには、からかう、バカにするの意味、でっち上げる、機に乗じるの意味もある」(前出『ほんとうの中国の話をしよう』)。

 この言葉は、中国が「改革開放」に乗りだし、誰も彼も「舌先三寸」で商売を始めようとしたことにも関係があるだろうが、余華が指摘するように「以前から中国社会に存在した、ホラを吹く、けしかける、そそのかす、デタラメを言う、デマを飛ばす、からかう、バカにするなどの現象が忽悠という言葉の海の中で勢いを取り戻した。同時に、社会における不真面目、悪ふざけ、冗談の気風も、忽悠とともに横行するようになった。本来は悪い意味の言葉が、忽悠の門下に入ることで、中立的な地位を獲得した。趙本山のおかげで、中国の老若男女は口を開けばすぐに忽悠を始めるようになった。忽悠はもはや唾液のようなもので、誰の口の中にも存在し、誰の口からも噴射される」(同前)ことだった。杭州に住んでいた余華の母も、父からの手紙で「忽悠」されて、父の仕事場のある田舎に戸籍を移した、という。

 私もある中国人と仕事をしていて、「忽悠」されたことがある。彼の小説が、中国で連続ドラマになる、映画化されるという話を盛んに吹き込まれ、その翻訳本を小学館から出版したのだ。そして、上海の映画会社、日本の映画制作会社などのプロデューサーや関係者を紹介され、実現一歩手前までいったように思えた。結局、お金の問題や政治的な風向きで実現しなかったが、その作家の「忽悠」力は大変なものだった。眉に唾をつけている私さえも本気にさせ、しかも「私」をも「忽悠」の一つの道具にしてしまうのだ。「ペテン」と「商売上手」の紙一重のところに、この「忽悠」はあるのだ。

ウーム、日本人が大陸で生きていくことは、かなり過酷なことのようですね・・・・
精神衛生上あまり良くないようです。

お次は漢人の起源あたりを見てみましょう。
p264~266
<「竜」とは何か>より
 確かに『史記』にも、竜が漢を建国した劉邦の母に覆いかぶさって彼が生まれたとも書かれている。岡田氏は、二里頭文化の夏王朝を創った人たちは、竜をトーテムとする「東夷」であったという。

 次の王朝の殷は、「この新王朝をたてた殷人は、黄河の北から南下してきた、東北アジアの狩猟民であった。『史記』の「殷本記」によると、殷人の高祖母神は簡テキといい、有ジュウ氏、つまり戎、つまり草原の遊牧民の娘であったが、姉妹三人で水浴びに行ったところで、ツバメが卵を落としたのを見、簡テキがこれをとって呑んだところが、孕んで契という子を生んだ、という。この、女神が野外の水浴で、鳥の姿で天から下った神に感じて妊娠するというのは、大興安嶺以東の東北アジアの森林地帯の狩猟民に共通した始祖神話の形式である。殷人が東北アジアの狩猟民、つまり「北狄」の出身であることが知られる」(同前)。周はチベット系の「西戎」ではないか、と推論する。「北狄」の一つで南方の大国であった楚は、間違いなく「南蛮」の国である。
 
 始皇帝以前の中国は、こうした東夷、北狄、西戎、南蛮が洛陽盆地をめぐって争いを繰り広げたところ、つまり中原であるが、では中国人とは誰なのか、といえば「これらの諸民族が接触・混合して形成した都市住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「蛮」「夷」「戎」「狄」の子孫である。いかなる種族の出身者であれ、都市に住みついて、市民の戸籍に名を登録し、市民の義務である夫役と兵役に服し、市民の職種に応じて規定されている服装をするようになれば、その人は中国人、「華夏」の人だったのであって、中国人という人種はなかった」(同前)。

 民族の交代と混交は中華の地において何度も繰り返す。秦・漢の統一によってできた「漢人」の人口は後漢末の大混乱によって、漢代に五千万あったものが三国時代に十分の一にまで激減する。その間隙を埋めたのが、鮮卑・匈奴などの「五胡」と呼ばれた中国北方の諸民族である。彼ら「北族」は侵入、あるいは平和的な移住によって人口の大幅に減った中原に入る。一方、生き残った古い「漢族」は、長江以南に落ちのびる。


『クジラの文化、竜の文化』1
『クジラの文化、竜の文化』2
『クジラの文化、竜の文化』3

 

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