『南シナ海』3

<『南シナ海』3>
図書館に予約していた『南シナ海』という本をゲットしたのです。
人工島の拠点化、緊張する周辺国、衝突の危険と不測の事態・・・今も現在進行形の戦略的要所ともいえる南シナ海は、中国嫌いの大使にとって看過できない場所でおます。


【南シナ海】
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ビル・ヘイトン著、河出書房新社、2015年刊

<「BOOK」データベース>より
境界線と領有権の「なぜ」を詳説!人工島の拠点化、緊張する周辺国、衝突の危険と不測の事態。「南シナ海の歴史」は「世界の歴史」であり、その未来は世界の関心事だ。ここで起こることは世界の未来を決めることになる…歴史、国際法、資源、政治、軍事など、あらゆる角度から解説する必読書。

<読む前の大使寸評>
吉岡桂子委員が選んだ、政治、軍事、神話にも注目した本である・・・・新たな冷戦を阻むヒントになればいいんだが。

朝日デジタルの書評サイトに載る前に図書館に予約したが、先客が7人もいました。

<図書館予約:(3/01予約済み、6/05受取)>

rakuten南シナ海


ソルハイムの説の続きを見てみましょう。
p30~31
<先史時代~1500年>より
 くわしいことはわかっていないが、後1世紀の東南アジアに覇を唱えていたのは、中国の文献にいう「扶南」だったようだ。扶南はメコンデルタを中心に、いまの南ベトナムからカンボジアに広がっていた。地の利と巧みな政治的駆け引きとを通じて、扶南はひとつの帝国を築きあげた。そして西はヨーロッパとインド、東は中国とをつなぐ交易ルートの要所を押さえ、いよいよ豊かになっていった。

 なにしろローマは中国の絹と東南アジアのスパイスのとりこになり、中国人はアラビアの乳香や没薬を求め、ガラスや陶器や金属製品、象牙、サイの角、稀少な鉱物がすべての地域の間をたえず流れていたのだ。

 このルートを最初に開拓したのはヌサンタオだった。場所から場所へ移動し、ものを交換しては利益をあげていたのだ。中国の文献によると、マライ人の船は早くも前3世紀にはやって来ていたという。インドや中東の沿岸部からも、それに混じって徐々に船がやって来るようになった。

 いっぽう中国の船については、南シナ海を渡って航海したという考古学的記録が現れるのは、やっと後10世紀になってからだ。このことは、それとは逆の中国の数々の主張とは相いれないように思われる。たとえば、中国外交部のウェブサイトには「後漢の楊フが『異物志』と題する書で南沙諸島に言及している」と書かれているが、現存する証拠から見るかぎり、楊フは独自に航海して調査したのではなく、港にやって来た外国の商人に話を聞いただけではないだろうか。いまの中国南部の住民は、海に出る危険は他人に任せ、船がやって来たときに取引をすればじゅうぶんと考えていたようだ。

 扶南の位置は文字どおり要所だった。この時期、交易はリレー式におこなわれていたからだ。航路を始点から終点まで行き通す船は、かりにあったとしてもごくわずかだった。おそらく商船は、航路のうちよく知っている部分だけを行き来して商品を運んでいたのだろう。まずはヨーロッパからインドまで、次の船はインドからマレー半島まで、そこでマレー半島の最も狭い部分であるクラ地峡を陸路で越えて、次の船で扶南まで渡り、最後の船が扶南から中国南部へたどり着くわけだ。

 商売をうまくまわすには、風の季節変動がもたらす周期をよく知っていなくてはならなかった。その風はいまでは、「季節」を意味するアラビア語、マウスィムすなわちモンスーンと呼ばれている。


ベトナムのナショナリズムを見てみましょう。
p214~216
<軍鼓と象徴 ナショナリズム>より
 現代ベトナムのナショナリズムは、多かれ少なかれ、中国への抵抗という文脈で定義されている。ベトナムの市や町の大きな通りにはたいてい、いま「中国」と呼ばれている国のだれかと戦った人物の名がつけられている。たとえば徴姉妹は、紀元40年に反乱を指揮した人であり、ゴ・クエン(呉権)は938年、「中国」からこの国を初めて独立させた支配者と言われている。

 リ・トン・キェト(李常傑)は1076年に宋と戦った人、チャン・フン・ダオ(陳興道)は1284年にモンゴルを破った人、レ・ロイ(黎利)は1428年に明を破った人という具合だ。ほとんどは時代錯誤の神話にすぎない。現在の国境で分けられたベトナムと中国というふたつの国が、初めて戦争に突入したのは1979年のことだ。それ以前の抗争は、一部地域の統治者や反逆者、軍閥、属国、新興勢力による戦いでしかない。かれらの話していた言語は、その「子孫」の話している言葉と同じではないし、また敵の言語と違っていたともかぎらない。にもかかわらずいまのベトナムでは、これらの偉大な戦いは、「チュン・クォック(中央の王国)」による帝国主義的な企みに抵抗しぬいた、長く輝かしい歴史の証拠とされているのだ。

 建築から料理まで、この二国の文化的なつながりは明らかだ。しかし草の根レベルでは、いまも「タウ」と呼ばれる人々への猜疑心は根強い。この偏見の根っこにあるのは恐怖心だ。ベトナム人は、自分たちのほうが中国人より創造的で文化的だと考えているが、中国商人の鉄壁のネットワークには太刀打ちできない。その一見して閉鎖的な共同体は、いわゆる「触手」を東アジアじゅうに伸ばし、ベトナムを、そしてこの地域全体を乗っ取ろうとしているように見える。

 もっと偏見のない目でベトナム史を見てみると、「中国」とのつながりの重要性が見えてくるだろう。ヌサンタオの時代からそうだったし、福建省の商人による海上交易もあった。1980年代、ベトナムがスターリン主義を脱しはじめたころには、東南アジアじゅうに中華系が投資を始めている。ベトナムに共産主義体制が存在しているのは、20世紀の大半を通じて中国から受けてきた保護や援助のおかげである。思想的な刺激もロケット砲も米も、北の中国から流れ込んできた。1975年に北ベトナムは南ベトナムに勝利したが、その勝利の基盤は中国の援助によって築かれたのだ。

 「反中」が多くのベトナム人に受けるのは、ひとつには、中国から受けてきた政治的恩恵のせいでもある。反中は暗に「反共」を意味しているのだ。ハノイの真ん中で共産党批判のデモをおおっぴらにおこなえば、自分から長い刑務所暮らしに志願するようなものだ。しかし批判する相手が中国なら、愛国主義者と見てもらえる一方で、間接的に共産党の正統性に疑問符を突きつけることができる。

 なぜなら、共産党は中国の支援によって権力を握り、いまも北京の「兄」と思想的にも実際的にも強く結びついているからだ。しかし、その他の点では党に忠実でありながら、中国の影響を厳しく批判する者も少なくない。

 愛国心の問題として批判する者もいるが、「チャイナ・カード」を切るのはまた、ライバルの足を引っ張るひとつの手段でもあるのだ。中国を批判することによって、北京と最も強く思想的に結びついている党の一派を批判しているわけである。そういう一派はまた、社会を厳しく管理することを好み、国営企業による経済支配の継続と、西側に対する強硬な政策を支持する一派でもある。


フィリピンのナショナリズムを見てみましょう。
p230~232
<軍鼓と象徴 ナショナリズム>より
 ごくまれに、エリート層のナショナリズムが外交政策に影響をおよぼすことがある。1991年、フィリピン上院の決定にアメリカは仰天した。1947年に結ばれた軍事基地協定の更新が否決され、スービック湾にある広大なアメリカ海軍基地が閉鎖されることになったのだ。しかし、このときは環境が特殊だった。

 反対票を投じた12名の上院議員のなかには、対米依存が国の発展を妨げると感じる保守派のナショナリストもいた。しかしその数がふくれあがったのは、フェルディナント・マルコスの独裁体制を支持した、アメリカ政府に対する人々の怒りがあったからだ。また、アメリカの核兵器の受入れを嫌った者もいれば、米兵による婦女暴行に憤る者もいた。

 とはいえ、1991年は例外だ。フィリピンのエリート層は、言語と歴史と見解を共有するアメリカとの結びつきが強い。しかしかれらは、アメリカも同様に感じているという思い込みに基いて、同胞をなだめて根拠のない安心感を抱かせている。社会のひと握りにすぎないエリートたちは、数世代にわたってアメリカに多大な貢献をしてきただけに、1944年にマッカーサーが戻ってきたように、なにかあったら必ずアメリカは「戻ってくる」と信じ、どんな紛争でもとうぜんフィリピンの味方をしてくれると信じている。

 このような自己の過大評価に目がくらんでいるから、フィリピンの政策立案者には、この地域の現実が変化していることが見えていない。いまのアメリカには、フィリピンとのしがらみよりも、中国との関係のほうがはるかに重要になっているのだ。それがわからないせいで国全体が危険な状態に陥っていて、2012年のスカバロー礁での「籠城」のような国際危機にうっかり踏み込んでしまうのだ。威勢はいいが、それの裏付けになる腕力を持たないからである。アメリカが信頼できないとなると、将来的にはさらに広範に影響が出かねない。というのも、中国に接近するほうが自己の利益になると、エリート層が判断するかもしれないからだ。
(中略)

 しかし、フィリピンにはもうひとつのナショナリズムに通じる流れがあり、そのナショナリズムはまたべつの反感(中華系少数派に対する)を刺激する。中華系であることを隠そうとするメスティーソのエリートとは対照的に、20世紀の移民たちには選択肢がなく、公然と中華系でありつづけるしかなかった。

 何世紀ものあいだ、福建人はフィリピン社会から締め出されていた。スペイン人はかれらを「サングレー」、のちには「チノ」と分類していたし、アメリカの行政府は「中国人排斥法」を成立させてその移住を抑制し、また1947年の条約によってかれらは中華民国人ということにされてしまった。この状況にようやく終止符が打たれたのは、1975年にフィリピン政府が中華人民共和国を承認し、「チノ」が完全な市民と認められてからである。かれらはひとつの共同体として成功している。『フォーブス』誌の2013年のリストでは、フィリピンで最も裕福な40人のうち、19人が明らかに中国ふうの姓を名乗っている。

 こういう人々の富は、古いメスティーソの一族との協力に支えられている。たとえばサイはアヤラ財閥と、ゴコンウェイはロペス財閥と密接な関係にある。しかし「短い名前」の人々に対する偏見はいまも消え残っている。中華系の人々をさして他のフィリピン人が「インチク」(虫けら)と呼ぶのを耳にするのはめずらしいことではない。


『南シナ海』1
『南シナ海』2

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