『日本語えとせとら』2

<『日本語えとせとら』2>
図書館で『日本語えとせとら』という本を手にしたのです。
なんか、読んだことのありそうな本であるが・・・ま いいかということで借りたのです。

帰って、日記を調べてみると、3ヶ月前に借りた本であることが判明しました(イカン イカン)
今日の日記のタイトルを『日本語えとせとら』2としたのは、2度目という意味でもあるのです(汗)


【日本語えとせとら】
阿刀田

阿刀田高著、時事通信出版局 、2010年刊

<「BOOK」データベース>より
阿刀田高が綴る、日本語にまつわるエッセー。日本語への深い愛着が感じられる一冊。

<読む前の大使寸評>
日本語に関する言語学的エッセイか・・・・大使のツボでんがな♪
第2部が和洋書籍の書評集になっているが、これも、良さそう。

rakuten日本語えとせとら
『日本語えとせとら』1byドングリ


阿刀田高さんは、内外の短篇小説に造詣が深いとのことです。
どうりで・・・この本の各エッセイが短いわりに印象的な切り口を見せています。

その切り口を一つ、二つ紹介します。
p17~19
<言葉で喜ぶ>
 「“ことほぐ”って知ってる?」
 若い人三人に尋ねてみた。
 一人が「知らない」と首を振る。二人が「お祝いすることでしょ」と答えてくれた。
 「じゃあ、友人の結婚を聞いてひとり静かにことほぐ、これ、正しい?」
 重ねて尋ねると、ジロリとにらむ。わざわざ聞かれるのは「正しくない」からだろうけれど、どこがどう違うかわからない、そんな心境に違いない。

 その通り、正しくない。“ことほぐ”は“言葉を告げて祝う”こと。ひとり静かに黙って祝うのは、ことほぐではない。ただ、ほとんどの場合、祝うと言えば「おめでとうございます」とか「よかったねえ」とか言葉を発して祝うから、“ことほぐ”と“祝う”とが同義語に思われてしまうのだろう。屁理屈をこねれば、お祝いのプレゼントだって、なにかしら言葉をそえて贈る。言葉なしでただ贈るのは、失礼、と、これが良識だろう。やっぱりことほいでいるのだ。

 だが、これとはべつに、ある日、ふと気がついた。文学というと、少し大げさかもしれないが、私たちが詩文を楽しむ理には、
・・・この“ことほぐ”が含まれているのではあるまいか・・・

 つまり言葉に出してすばらしさを称えるわけだ。たまたま歳時記の夏の部をのぞいていると、高浜虚子の句が、
“新潟の初夏はよろしや佐渡も見え”

 私はあのあたりの海岸風景をよく知っているから、
・・・ふーん、いいね・・・
 と感動を覚えてしまう。うれしくなってしまう。

 しかし、つらつら考えてみると、新潟の海岸から佐渡が見えて、なにがよろしいのか、よくわからない。それが春ではなくて初夏だと、どうして特によろしいのか、さらにわからない。

 もちろん、そういう理屈を言っちゃあ、いけないよ。初夏の日本海の風景に接して卓越した俳人が詠み、
・・・自然の風景は、すばらしいじゃない・・・
 と、ことほいでいるのだ。言葉で告げて祝福しているのだ。共感を呼びかけ「そうだ、そうだ」とみんなで喜びあおうとしているのだ。

 実際には月並みで、取るにもたりないことのようでも巧みな言葉で表現して、その真価を訴えたりする。「すばらしいじゃない」と応援を送る。文学の原点は、このあたりにあったのかもしれない。
“山は青きふるあと、水は清きふるさと”
 なんのことはないけれど、日本の自然を歌って「そうだよなあ」と、しみじみ共感させてくれる。言葉で喜ばせてくれる。
 喜びばかりではない。慰めもある。いたわりもある。

 昨今、はやりの“千の風になって”も、内容は非科学的、中学生の詩のような文言だが、巧みに綴られているからこそ、人々の胸を打つ。あたりまえのことや人間の素朴な心情を言葉で的確に、美しくとらえて共感を創ること、これは文学の存在理由の一つだろう。歌謡曲の歌詞も巧みなものはこの例外ではない。“わかっちゃいるけど、やめられない”と、これは植木等さんの尊父なる和尚によれば仏教の本源的観点なのだ、とか。


文学の原点と来たか・・・
阿刀田さんのおっしゃる通りなんだろうね、さすがに元ペンクラブ会長やで♪

p136~138
<初めが肝心>
 "国境の長いトンネルを抜けると雪国であった"

 "親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりして居る″

 "私が自分に祖父のある事を知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後2月程経って、不意に祖父が私の前に現れて来た、その時であった"

 "死者たちは、濃褐色の液に浸かって、腕を絡めあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている"

 "安田辰郎は、1月13日の夜、赤坂の割烹料亭「小雪」に一人の客を招待した"

 "堀川の大殿様のような方は、これまでは固より、後の世にも恐らく二人といらっしゃいますまい"

 "指先から煙草が落ちたのは、月曜の夕方だった"

 "越後の春日を経て今津へ出る道を、珍しい旅人の一群が歩いている"

 "まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている"

 "「おい、地獄さ行ぐんだで!」"
 
 思いつくままに日本の名作小説十篇の冒頭を抜き出してみた。まるでクイズみたい。どれが、だれの、どの作品か、おわかりだろうか。

 読者はなにげなく読むケースが多いけれど、作者のほうは冒頭の一節に神経を使う。熟慮する。こう書こうか、ああ書こうか、少なからず思い悩むのが通例だ。私自身の場合を述べれば、原稿用紙を前にして、
・・・よし、これでいい。これで行こう・・・
 冒頭がきっちりと決まれば、
・・・今日の仕事はこれでおしまい・・・
 へへ、呑気だね。酒を飲もうと、遊びに出ようと、いっこうにかまわない。

 「たった一行でもいいんですか」
 と聞かれそうだが、冒頭をきめるということは、どんなタイプの作品か、ミステリーなのか、歴史小説なのか、私小説なのか、方向をはっきりと定めている。それがなければ一行とて書けない。おそらく主人公のイメージもできているだろうし、ストーリーのあらましも心中にある。逆に言えば、そういう構想があって初めて第一行目が書ける。終日酒を飲んでいても "よし、明日から"でさしつかえない。

 小説家の場合はやや特殊かもしれないけれど、一般論としても、文章を書く時には、同様の方法を保持したほうがよいのではあるまいか。報告書であれ、マニュアルであれ、手紙であれ、なにから書き起こすか、用件全体を展望し、どう訴えるのがよいか、吟味することが絶対に必要だろう。

 簡潔がいい。単刀直入のほうが、わかりやすいだろう。
 
 十のことを訴えるのに「一、ニ、三、四・・・」と順を追って説明する方法もあるが、まず端的に結論を提示し、こまかいことは後から、という方便も有効だ。たとえば、色合いを言うのに、
 「ひとことで言えば玉虫色です。が、緑が濃く金を殺して深め、曖昧な印象ではありません。そのためには、薄い染料を使い・・・・・」という表現だ。

 もちろんケース・バイ・ケース。ただし第一行目の持つ重要性はつねに忘れてはなるまい。 "初めが肝心"は文章を、言葉を、操るための金言でもある。


大使の文章の冒頭は、阿刀田さんに言われるまでもなく、つっけんどんというか単刀直入でおます♪

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