文字の文化史(その4)

<文字の文化史(その4)>
初期の文字は粘土、木片、骨片、皮、布に書かれて最終的には紙に書かれた。
図書館で借りた「文字の文化史」であるが・・・・
書体や活版印刷のあたりについて、引き続き読み進めたので(その4)として紹介します。

まず、石刻や金石学のあたりを紹介します。
著者は、書かれた文章や文字の美しさに注目して述べています。

<不滅への願い>よりp241~249
■石刻
 「皇帝の文字」の章で、秦の始皇帝がその功業を誇示するための大記念碑を立てたことを申し上げた。石碑の立てられた場所は、秦山の山頂など、いわば聖地で、一般民衆の眼前にさらしたものではない。しかしながら、文字がほんらい宮殿の奥深くに発祥して、神と王との、あるいは王と大臣との間にだけで使われるものであった、ということを考えると、文字が白日の下に躍り出たことは、何といっても重大な変革であった。始皇帝のたてた大帝国では、末端の小役人までが文字を使いこなして、皇帝に奉仕するようになっていた。立場をかえて言えば、皇帝の側はそういう何千、何万もの、互いに顔も知らない、声も聞いたこともない手合いにまで、その意志を通じなければならず、また文字を媒体にして、そうすることが可能になっていた。現に皇帝に仕えている役人たちだけでは済まないで、かれらの子、孫、ひまごにまで忠誠を求めるために、宣言文を石に刻ったのである。永久に伝えたい文章をしるすための材料として石を選んだことはまことに賢明であった。石なら銅のように火にとけることもない。風雨にさらされながら、その後1千年、2千年の生命を保った石碑もすくなくない。

 この試みが賢明であっただけに、秦が滅びると、たちまち数多くの模倣者が現れることとなった。漢の天使たちや政府ばかりでなく、そこはかとなき小役人までが、何かというと記念碑を立てたがるようになる。現在のこっている漢碑が百点を下らないのだから、漢代だけで数千、あるいは数万の石碑が作られたに違いない。
 漢代の石碑は、当然のことながら、当時の常用書体であった隷体で書かれる。それも実に見事な書体である。

書体書体

 そして、題額は篆書(てんしょ)で書かれるのが通例である。かつては特別に威儀ばった時に皇帝が使った文字がただの装飾文字になり下がったのである。ところが、もっと後世になると、もう一段ずれて、碑の本文は楷書で、題額は隷書で書く場合も見られる。タテとヨコの線が直角に交わり、はね口の雄大な隷書も装飾文字としてやはりよく効くので、書物の表題とか、看板などに盛んに使われる。その伝統は今日までつづいて『朝日新聞』『毎日新聞』をはじめ、日本の新聞はたいてい標題を隷体、ないし隷体まがいで書いてある。

 漢代にここまで発達した記念碑製作は、時代の下るとともにますます勢いを増して行った。作るのは政府や役人に限らないで、一般の民衆にまで及ぶようになる。寺院の免税を認めた赦免状とか、田地を寺に寄進した証文などを石碑に刻ったものも少なくない。こうしておけば、証文が消えたり、改ざんされたりする心配がない。近世に下ると、地方の県知事など、一々の任地で記念碑を立ててもらあう、あるいは立てさせるのが、通常のしきたりにまでなった。中国の田舎の役所には、たいてい歴代知事の石碑がズラリと並んでいる。

■石碑の文字
 文章にこれだけ念を入れるのであるから、碑に刻りつける文字も、また一流の能書家に書いてもらうのが理想である。文章も同じことであるが、誰もが都で当代第一という人に頼むわけには行かないから、地方は地方で一流の人に、さもなければ財政の許す範囲で最高の人に頼むことになる。そのためには破産もしかねまじき無理までする。こういう手数をかけてできた石碑であるから、その文も字もみごとに整い、遺憾なく美しい。整いすぎ、美しすぎるのが難である、という人さえある。だから、石刻の文字は、お習字の手本として、最高無上といえるまで珍重されてきたことは、ご承知の通りである。

 美しさといい、珍重といい、それは個人の好みの問題で、評価の基準は、まちまちである。ある人は漢碑のスマートさをこよなく愛し、ある人は、北朝の石碑のゴツゴツした書体を推奨し、そして隋唐以後のスッキリした楷書に凝る人は、もっともっと多い。お習字の手本としてばかりでなく、石にのこされた古体文字の研究も由来は古く、銅器の銘文、すなわち金文の研究とひっくるめて「金石学」と呼ばれる。


最後に、活版印刷や最古の活字本あたりについて紹介します。

<活版印刷>よりp270~285
 現在もっとも普通の印刷法は、活版印刷である。西洋ではグーテンベルグの昔から活版印刷であった。欧文は字母の種類がすくないので、当然整版より活版の方が適している。だが漢字だと、字母が5千ばかりはどうしても必要だから、それの活版ともなると、厄介さは比べものにならない。しかし結局は活版の方が木版に完全に打ち勝って、いまでは木版師は人間国宝的存在と言えるほどにまでなっている。それだけ活版に利点があるということである。だから活版術そのものは、木版が普及しだした11世紀には、早くもその走りの如きものが現れた。それでいて活版が普及するのは錫や鉛の活字ができてからのことで、そこまで行くのに実に700年の歳月を足ぶみしていた。

■現存最古の活字本
 漢文の木活字本の遺品でいま見られる最古のものは、15世紀末のものでしかないと右に申したが、実はそれより1世紀半ばかり以前に中国で作られはしたが、漢文の本ではない。今まで何度か引き合いに出した西夏語の本である。
 西夏国は13世紀の前半に蒙古のチンギス・カンのために亡ぼされた。蒙古人はここの行政をチベットの大ラマに管理させた。大ラマの側から言えば、旧チベット国と旧西夏国との領域の行政を管理したわけであるが、そのほかに蒙古帝国内の各地の仏教の支配権ももっていた。大ラマは、その管理下の西夏人やウイグル人のための仏典の印刷を、同じく管理下の漢人の仏教徒に負担させた。そういう事情で、元の時代には西夏語やウイグル語の仏典は支邦の内地、それも南方の杭州などで印刷されていたのである。

西夏西夏文華厳経

 この厄介な仕事を課せられた漢人は、かなりの量の西夏経を活字で刷った。仏典は同じ字がしばしば現れるから、その方が手軽だと考えたのであろう。図に掲げたのは、元の末、1350~60年の頃に刷られた『華厳経』である。
(中略)
 活字版であるから、字は不揃いで、濃淡も著しい。さらによく見ると、毎紙の終わりに行くほど、濃い字が多く現れる。裏返して見ると、濃い字は却って裏に摺り痕が見えない。しかも、それらは同字が多い。一つの字が何度も現れて、手持ちの活字が足りなくなると、そこを白くあけておき、解版したあと、所要の活字に墨をつけ、一々手で捺したのである。

■洋式の活版
 19世紀の初頭に、欧人宣教師がマカオやホンコンで漢字の金属活字を作って、これで『聖書』を刷ったが、洋式印刷は中国人には容易にうけ入れられなかった。書体が雅でないことが何よりも嫌われたらしい。様式活字印刷が軌道に乗ったのは、やっと、同じ世紀の半ばを過ぎてからのことである。
 それより早く、日本には切支丹版が刷られたが、それは鎖国以後に中絶した。日本での近代印刷の開祖は、幕末オランダ通詞の本木昌造といわれる。だが、当時はヘボンの『和英語林』や『薩摩字書』などは、長崎では印刷できず、上海の美華印書館で印刷されるという有様であった。この美華印書館のギャンブルが維新後の1870年に来日して、その活字と技術とを伝えてから、日本の印刷も次第に形が整ってきて、やがて本木の門下によって築地活版所などができた。
 これは、ちょうど義務教育制の布かれた時である。限られた人のものであった文字は、ここで万人のものとなる。文字の運命は、ここでその何千年かの歩みの中で最大の転換を遂げたのである。それから後の物語を申しあげるのは、もはや私の役目ではない。



【文字の文化史】
文字

藤枝晃著、岩波書店、1991年刊

<「BOOK」データベース>より
3500年前に溯る甲骨文・金石文。漢字の誕生は神をまつり、神託をきく儀式と深くかかわっていた。聖なる文字はどのような歴史を経て万人のものとなったのか。写本の素材や形態の変遷、木版・活版印刷の登場に伴う字体の変化を興味深く語る。図版102枚。

<読む前の大使寸評>
漢字、翻訳、通訳、印刷、書籍・・・大陸文化とのつきあいに欠かせないこれらのアイテムが興味深いわけです。

rakuten文字の文化史


文字の文化史(その1)
文字の文化史(その2)
文字の文化史(その3)
漢字がつくった東アジア


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