137億年の物語2

<137億年の物語2>
この本は多元的な視点で書かれていて、どこから読んでも面白いのだが・・・・
昨今は開戦前夜のようにきな臭い中国の歴史について、アットランダムに読み進めたのです。

今では、世界の嫌われ者となった中国であるが、歴史をさかのぼれば、世界一の文明を誇っていた時期もあるわけで・・・・どこで、どう間違ったのか?という気がするんですね。

大使の関心は印刷からさかのぼって、漢字に向かうわけです。

<殷王朝>よりp193~194
 殷(紀元前1766年~同1050年)は、たしかな考古学的証拠をはじめて残した王朝である。それ以前の歴史は魔術や伝説に彩られ、「三皇五帝」と総称される8人の帝王が支配したといわれている。
 三皇五帝の物語を知ることができるのは、『竹書紀年』という古代中国の歴史書のおかげだ。この書物は、紀元前299年に没した魏の襄王の墓から発見された。この時代のことを教えてくれるもうひとつの書物は、130巻におよぶ『史記』で、紀元前109年から同91年にかけて、司馬遷がひとりで書きつづった。
(中略)

甲骨甲骨文字

 中国の支配者に関する最古の証拠は、紀元前1600年ごろに誕生した殷(商)の時代のものだ。1920年代、殷王朝の遺構の発掘作業をしていた考古学者たちが、11基の王家の墓と宮殿の土台を発見した。そこからは、青銅器や、翡翠などの玉で作られた工芸品が数万個も出土した。それらの遺物からは、殷の文化が非常に高度なものであったことがわかる。彼らは、完成された文字システム(甲骨文字)を持ち、さまざまな儀式を行い、強力な武器を所有し、広い地域を支配していた。人間を生贄にすることも多かった。
(中略)
 華北の王たちは、専門的で複雑な占いの儀式を、自ら執り行った。彼らは、神官やシャーマンのような呪術師を必要としなかった。天井の神々の意向をうかがうのは、王の仕事だったからだ。
 その方法は奇妙で独創的なものだった。熱した金属の棒を、カメの甲羅か雄牛の骨に押し付けると、ひび割れができる。王は、手相占いのように、そのひび割れの長さと方向を見て、自分と臣民からの問いに対する神の答えを読み取ったのだ。神に問うたのは、「いつ雨が降るか」「次の戦いに勝てるか」「今年は豊作になるだろうか」といったことで、そのような問いを、象形文字(甲骨文字)で甲羅に刻むこともあった。甲骨文字は現代の漢字にとてもよく似ているので、楔形文字やエジプトのヒエログリフとは違って、ロゼッタストーンやベヒストウン碑文のようなものがなくても簡単に解読できた。そのこと自体が、中国の歴史がどれほど遠い過去に根ざしているかを示しており、また、中国で古代の文明が途切れることなく今日まで続いてきた証ともなっている。


ソフトパワーの伸張をはかるべく、中国政府は世界各国に孔子学院を建てているが、如何せん。文革で一度壊れた公徳心は、いっこうに復活しないようです。

<春秋戦国時代と諸子百家>よりp195~197
 戦国時代には、諸子百家とよばれる、さまざまな思想家や学派が次々に登場した。賢者や思想家たちは各国の宮廷を巡って、どうすれば正しく生き、賢く国を治め、国を繁栄させることができるかを、王や貴族に説いた。こうした思想家のひとりが孔子である。後にその名は西洋にも伝わり、「コンフューシャス」とよばれるようになった。言い伝えによると、孔子は、紀元前551年ごろに生まれ、同479年に没した。その教えは、今でも、中国はもとより、日本、韓国、ベトナムまで、東アジアの社会に生き続けている。
 孔子は魯という国の法務大臣を務めていたが、55歳ごろにその職を辞し、徳のある生き方と国を治める最善の方法を説くために、北部諸国をめぐる旅に出た。権力争いと軍事的衝突に明け暮れる社会にあって、孔子は、社会の調和を取り戻すには、人々が目上の者にしたがい、正しく行動し、礼儀を重んじることが肝要だと考えるようになった。しして、王が臣民に手本を示せば、臣民は自ずと王にしたがうだろう、と諸国の王に説いた。もっとも、今日、孔子の教え(儒教)として伝わっているものは、必ずしも孔子自身が説いたものとは限らない。彼の弟子たち、特に孟子と荀子は、孔子の思想をより完全なものへと発展させたが、それは本来の孔子の教えとは異なっていた。
(中略)
 孔子が編纂したとされる書物は多くあるものの、実際に孔子が書いたかどうかは不明である。とはいえ、2000年にわたって中国では、官僚、法律家、軍人、役人になろうとする人は、『四書五経』(そのいくつかは孔子が編纂したと伝えられている)を読むことを義務づけられた。このように、教育、賢人や思想家の教え、調和、従順を重んじる伝統は、中国社会の特徴として、今日まで脈々と受け継がれている。
 孔子は、社会秩序の安定と平和を願ったが、中国ではその後も戦乱が続いた。紀元前221年、秦(Chinaの語源となった)がついに中国を統一した。秦の台頭は、血も凍りそうなほど残酷な逸話に彩られている。


世界最大の帝国を築いた始皇帝は、焚書坑儒で知られるように、圧政についても半端でなかったようです。

<始皇帝の中国統一>よりp197~199
 秦は、中国の北西の端にあった王国で、人びとは馬にまたがって狩猟をしていた。すぐれた馬を選んで交配するうちに馬は大型化し、兵士たちは扱いにくい戦車を捨て、馬の背にまたがって戦場に向かうようになった。騎馬兵を擁する王は圧倒的な優勢を誇った。
 しかし秦は、軍事力だけでなく、残酷さでも群を抜いていた。白起という秦史上最強の将軍は、100万人以上の敵兵を殺し、70以上の都市を略奪した。紀元前278年、彼は秦にとって最大のライバルだった長江の南に位置する楚と戦って勝利を収めた。続いて、「長平の戦い」で、趙を倒した。この戦いでは、40万人以上の捕虜を生き埋めにしたといわれている。
(中略)
 まもなく、秦はかつてない強国となり、戦国の七雄の中で頭角を現していった。第31代君主、エイ政が王座に就いたとき、その力は頂点に達した。七雄のうち最後まで残っていた斉を紀元前221年に倒すと、エイ政は、中国全土を支配する最初の君主となり、「始皇帝」(在位:紀元前221~同210年)と名乗った。
 始皇帝は、宰相の李斯に助けられながら、秦を強大な中央集権国家に作りかえていった。地方の豪族を倒して新たに36の郡を設け、それぞれに民政を司る郡守と、軍事を司る郡尉、監察を司る郡監を置いた。郡守は、任地で権力基盤を築くことのないよう、数年ごとに異動させられた。これらの改革は、100年以上前に商オウがはじめた改革の流れを継ぐものだった。
 紀元前213年に、始皇帝は、焚書坑儒を命じた。焚書は書物を焼くこと、坑儒は儒学者を生き埋めにすることで、思想や政治的意見を統一するために言論の自由を弾圧したのだった。無数の書物が焼かれたが、その多くは、諸子百家の思想に関するものだった。医学・占い・農業などの実用書以外は、すべて禁止された。

(中略)
 始皇帝の治世の残虐さは、強い憎悪と反感を招き、皇帝の死後数年で秦は崩壊した。それでも、始皇帝は偉大な業績を残した。七雄を統合して世界最大の帝国を築いただけではなく、統治の大原則から細々とした規則まで、すべてに皇帝の意思が反映されるという、強力な中央集権体制を完成させたのである。
 米と絹と鉄は、領土拡大への野望と、征服するための手段をもたらし、史上最大にして最も長続きする国家を作り出した。古代中国の人々は、自然を支配することにより強大な力を得、独創的で力強い文明を築いていった。その文明は、その後数千年にわたって続くことになる。



<日本の発展と中国の停滞>よりp452~420
 ペリー提督の黒船に突然目を覚ませられた日本でも、驚くべき変化が起きた。アメリカとの通商条約を将軍が受け入れたことを不満に思った、藩士や公家たちが、1868年に王政復古を断行したのだ。新たに生まれた明治政府は、古くからのライバルであり師でもあった中国と同じような屈辱を受けることは、何としても避けたいと考えた。1868年に制定された「五箇条の御誓文」には、「知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」とある。日本政府は外国政策を180度転換して、外国から3000人もの専門家を招き、国民に西洋の法律や制度、科学技術を教授させ、その一方で、日本の研究者をヨーロッパやアメリカに派遣した。三井や三菱といった総合商社もでき、絹糸の生産を皮切りに工業化もはじまった。いわば「日本版ランカシャー」が築かれ、西欧をモデルとする「素晴らしき新世界」が極東ではじまったのである。
 日本政府は、産業をおこして軍事力を高める「富国強兵」政策を掲げ、積極的に領土拡大をはかりはじめた。1894年から95年にかけて、日本軍は朝鮮半島を戦場として中国と戦った(日清戦争)。中国も、ヨーロッパ列強に屈辱をなめさせられた後、国力を増強しようと「洋務運動」を推進していたが、この戦いでは日本が勝利を収めた。今や日本は、西欧諸国によって独占されていた領土拡大ゲームに参加するようになった。中国に、韓国の独立を認めさせ、台湾を日本に割譲させ、多額な賠償金を銀で支払わせた上、沿岸地域での通商権と製造業営業権を獲得したのである。
 その10年後、ロシアが太平洋岸の不凍港を手に入れようと南下してきたとき、日本はロシア軍を破って、世界を驚かせた(日露戦争)。1905年5月27日の日本海海戦では、日本海軍がロシア艦隊を壊滅させ、ついに日本が真の強国になったことを世界に示した。1910年に日本が韓国を併合したとき、列強から不満の声が上がることは、ほとんどなかった。 一方、戦争で国力がアヘン中毒の後遺症に苦しんでいた中国は、植民地を広げようとするハゲタカたちの恰好の餌食となった。フランスは中国の支配下にあったベトナムとカンボジアを攻略し、1887年にフランス領インドネシア連邦を築いた。10年後には、ドイツ軍ドイツ軍が戦略上重要な山東半島の広州湾を占領した。そのころになると、日本も韓国の支配権を確立していた。

 こうした状況から中国では、1900年にふたたび破滅的な内戦が起きた。「義和団」を名乗る復古主義者の地方農民たちが、西洋とその資本主義的文化を中国から締め出そうと立ち上がったのだ。その軍隊は、1900年6月に清朝の首都、北京に攻め込み、何万人もの中国人キリスト教徒を殺戮し、数千人の外国人を人質にとった。総勢2万人の、8カ国(オーストリア、フランス、ドイツ、イタリア、日本、イギリス、ロシア、アメリカ)の連合軍が救出に駆けつけ、8月には義和団を打ち破った。だがその後、第4回十字軍の暴挙を繰り返すかのように、連合軍は北京市内で略奪を行い、紫禁城に火を放った。義和団を支援していた西太后と光緒帝は西安まで落ちのびた。
(中略)
 連合軍による「救出」の費用として、清朝政府は6750万ポンドに相当する銀を支払い、それを8カ国が分けた。この莫大な金額は、農民に新たな重税を課さないかぎり、とうていまかなえるものではなかった。その結果、10年もたないうちに清朝政府は回復不能なまでに弱体化し、国民からひどく憎まれるようになった。そしてついに大衆による革命が起こり、2000年間続いた君主制は廃止され、1912年1月に、「中華民国」という共和国が成立した。
 しかし、「中華民国」も安定した統治権を持つことができず、その後数10年にわたって内戦と外国勢力による侵略が続いた。中国では、清朝以来の国土の荒廃を、共産主義によって解決しようとする毛沢東らが率いる勢力が台頭していくことになるが、これには、まず、ロシアにおける初の共産主義国家の誕生というおおいなる助走があった。
 マルクスの予言は、資本主義が発達した欧州ではなく、まず、東洋と欧州の中間に位置する農業国家の帝政ロシアで現実のものとなった。 


中国という多民族国家は、歴代の皇帝によって統治されてきたわけですが・・・
圧政に苦しむ大衆の革命や夷荻によって皇帝をすげ替えた歴史を持っています。
現在は、共産主義というデマゴギーをお題目にして、チャイナセブンを統治主体として仰いでいるが、今後どう変わるんでしょうね?


【137億年の物語】
137

クリストファー・ロイド著、文藝春秋、2012年刊

<「BOOK」データベース>より
137億年の歴史を42のテーマで語る。歴史を点ではなく、つながりで考える。西洋が中心ではない。アジア、南アメリカ、少数民族、イスラム、等々多元的な視点で理解する。地球的な規模で人類の文明も相対化する。豊富なイラストと写真で旅するように歴史を感じる。科学と歴史、その接点を考える。

<読む前の大使寸評>
わりと高価な本なので、こういう本を借りる時に、図書館のありがたさを感じるのです。中国に言及している部分が思ったよりあるので、楽しみです。

<読後の大使寸評>
訳者のスキルによるのかもしれないが、わりと物語風に書かれた訳文が明瞭で簡潔なことです。
著者は「自分の子どもに、この地球の歴史をどう教えたらいいか、それがヒントになってこの本が生まれた」と言うが・・・なるほど読みやすくて面白い本でした。

それから、横文字がなくても日本語になっているということは・・・
つまりは漢字語彙の多彩さを物語っているわけで、漢字文化圏の中でも日本文明の優位が証明されたわけですね(笑)

rakuten137億年の物語


NHKスペシャル「中国文明の謎」2
137億年の物語1

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