辛亥革命って(その2)    ③

辛亥革命を描いた「1911」という中国映画が昨年公開されたようだが、あんな漢族の宣伝のような映画は見る気がおきないのです。
日本ではわりと評価されている孫文であるが・・・・
孫文の唱えた三民主義すなわち民族・民生・民権はどれ一つとっても、今の中国では実現にほど遠いお題目のようなものである。

孫文.jpg

「王朝から国民国家」という本を図書館で借りたのだが、内モンゴル出身の楊海英さんが辛亥革命についてきつい見方を述べています。
この本の座談会の部分の一部を紹介します。

<辛亥革命観をどう相対化して見るか>p19~22
宮脇:辛亥革命で清朝が崩壊したと、大概の本に書いてありますが、間違いです。辛亥革命は1911年の10月ですが、そのとき清朝は崩壊していない。清朝を崩壊させたのは革命派ではなくて清朝の大臣だから、これはもう禅譲であり、無血クーデターですよ。

楊:禅譲ですね。禅譲と革命とはその性質がまったく異なります。

宮脇:平和裡に、何の血も流さずに、王朝を移したわけです。そういうことを抜きにして、フランス革命の類推でしか革命を論じないということがおかしい。清朝崩壊は、来年2月で100周年になるわけですけれども、清朝という王朝がなくなたことは確かだけれども、これは明治維新を意識した、無血クーデターそのものだと私は思います。なぜなら、日本は将軍から天皇に権力を移譲したけれども、向こうは実験を持っていた大臣が皇帝からそのまま実権をとる。しかも皇帝は帝という名前を残して、廃帝ですが、紫禁城に住んで、その枠組みは残すというのは、日本の明治維新をすごく意識してえいる気がします。
 辛亥革命は孫文だけが非常に有名ですが、実際には清朝の新軍が起こしたクーデターで、それに対して清朝の北洋軍の大臣が抑えに入ったわけですから、これは、本当にクーデターのようなものです。両方清朝軍なわけです。保守派の軍隊のほうが大きくて強くて実権があって、戦争になった場合にはクーデター軍が弱い。これを袁世凱と孫文が知っていたことは確かです。もしここで戦争が始まったら、たちまちヨーロッパに蚕食される。李鴻章の子分だった袁世凱は悪評の高い人物ですが、日清戦争を経験していて、朝鮮半島にいたこともあって、非常に国際感覚があったので、戦争をしないように決めた。だから孫文と話をつけた。ネゴシエーション以外に方法はなくて、それが、当時中国が植民地にならない唯一の方策だったということです。

 要するに辛亥革命ですぐに中華民国になったと考えるのが間違いなんです。段階があるわけですよ。つまり、袁世凱が死んで軍閥時代になると溥儀を追い出したり、昔の約束を反故にしたりしたところがまず第一段階の軍事革命であり、ロシア革命のあとの五・四運動が、本当の意味での革命です。だから第一段階以前の、この清朝の無血クーデターは、実際には私たちが思うような本当のチェンジではないというのが、私の意見です。

楊:ありがとうございます。馬場さんはこの点についていかがですか。

馬場:私は、現実な意味の歴史研究者ではあなく、ましてや辛亥革命研究者、あるいは中国近代史研究者ではありません。ですから、宮脇さんのおっしゃる「定義があいまいだ」ということはしっかりと受けとめつうも、それについて真正面で答える用意はありません。むしろ私の場合は、辛亥革命観を相対化して複眼的に見ることによって、どのような歴史の真実が浮かび上がってくるかということが大事だと思っています。厳密な定義も大事だけれども、いろいろな視点から、位相をずらしながら辛亥革命を見たときに、プリズムのように革命像が変わって見えてきます。定義をあらかじめ決めておいても、革命を論じる立場によって、あるいはこの革命100年というスパンで見たときに、その時間軸の中でどのステップから革命を眺めるかによっても、革命像は違って見えてくるのです。

 私はかつて1945年から72年までの日本人の中国像を知りたいと思って、その期間のなかで公刊された日本人の中国論を通して中国認識の変遷をサーベイしたことがあります。痛感したのは、E・H・カーではないですが、その時々の歴史的現在において、現在から過去をどう照射するかによっ歴史は書きかえられるていくものであって、歴史とは同時代史の集積なのだということです。ですから、まずは辛亥革命の後代の歴史家によって整序された歴史としてではなく同時代史として見たときに、どういう眺めがあったのかということについて考えてみたかったのです。
 その眺めの中に自分の身を晒したときに、宮脇さんがおっしゃったような、通説化された歴史像との歪みのようなものが見えてくるかもしれません。今のお話に触発されて言うと、端的に言えばその歴史を書くのは誰なのか、あるいは、どの地点からその歴史を書くのかということです。今の中華人民共和国の立場に立てば、それこそ革命段階論に依拠して、1911年の辛亥革命は、不完全で限定的なブルジョア革命であって、1949年の中国革命を担った中国共産党によって、辛亥革命の未完のプロジェクトは、そこである種の達成をし、その結実として新しい中国が成立したという見方です。一方、国民党の描く辛亥革命観からすれば、確かに辛亥革命は未完の革命であるが、1924年からの国民革命は辛亥革命の継続の革命だし、今の国民党も、あるいは台湾政府も、この辛亥革命の課題は継続し、戒厳令の解除や複数政党制の導入や総統の直接選挙によって、その課題を段階的に実現しつつあると捉えるでしょう。これはですから、史観の正統性・正当性の争奪戦のようなもので、辛亥革命をどうとらえるか、より端的に言えば、辛亥革命100年をどう祝うのかということをめぐって、歴史の解釈権・叙述権が争われているのです。
 私は両者の立場に拠って立つところを明らかにすれば、歴史を相対化してみることで、歴史の複眼的な真実が見えてくるのではないかと思うのです。さらに辛亥革命をモンゴルから見ると、中国共産党、国民党がひとしなみに抱いている革命に対するポジティブなイメージが「カーミン」という全くネガティブな像によって、まったく裏返って見えるということです。
 実は、日本人は、中華人民共和国の解釈にも、台湾政府の解釈にも、双方は相容れない立場でありながら、双方に対してある種のシンパシーをもってその見方に対してある種のシンパシーをもってその見方に同意できる部分があります。さらにモンゴルの辛亥革命観にも同意できる部分があるのです。つまり、同じように中華文明の周縁にいる日本人が、モンゴルや、モンゴルと同様に独立をしようとしたチベットに対する、ある種のシンパセティックな見方を持つこともできるのです。

 確かに革命ということの定義なしに革命像を比較する事は空虚ですが、「革命」という言葉にとどまらず、「国家」や「国」という言葉にしても、あるいは「天」という言葉にしても、厳密に定義することは至難のわざです。というのはそれらのキータームにして、キーコンセプトは、時代の変化に応じてそのインプリケーションが変遷していくものだからです。



<革命が掲げた課題は未だに達成されていない>p131~135
楊:清朝は、実に約300年の寿命なんですけれど、トータルで考えると、すごく寛容な王朝だったんですね。

宮脇:そうですね。

楊:ところが清朝が崩壊した途端に、この20世紀の中国を見てみますと、馬場さんの言葉ですが、辛亥革命から始まって、国民革命、共産革命、文化大革命とやたらと革命が多いんですね。清朝300年の間には、もちろん地方でちょっとした反乱とかはあったでしょうけれど、いわゆる革命はないんですよね。これは中国史の中で、非常にめずらしい現象なんです。ところが崩壊した瞬間に革命が四つも五つも出てきますので、やはり漢人が支配者になると同時に、不安定な100年に変わっているんですね。それはわれわれ周辺の、元藩部の人たちにとっては、大変迷惑な話です。「カーミン」というのはイメージが悪いと、冒頭で申し上げましたけれど、馬場さんは最近『戦後日本人の中国像』というご本の中で、文化大革命というひとつの「カーミン」を取り上げています。清朝が崩壊したのを受けて相次いで起こったこの複数の「カーミン」が日本に与えた影響、その辺をどういうふうにご覧になりますか。

馬場:今日のテーマは辛亥革命を縦軸の長い100年のスパンで縦横斜めの様々な角度から見直してみるとどうなるのか、ということですね。
 その100年の中に四つの革命という時代の趨勢の切れ目があり、その後に続く1989年の天安門事件を招いた民主化運動を入れれば五つの革命がぎっしりと詰まっているわけです。1911年の辛亥革命、24年から北伐を通して統一政権の樹立に至る国民革命、国共内戦から49年の中華人民共和国成立に至る中国革命、それに66年の文化大革命。

 そして今日、そういった度重なる革命経験を通して具象化した「革命中国」像は、日本の中では既に消滅しています。中国自身も、自画像を「革命中国」というふうにはもう自己規定していないと思います。
 改革開放路線に転換して、1992年のトウ小平の南巡講話でより強力に改革解放のアクセルを踏み、世界と同じルールを進み2000年にはWTOにも加盟してグローバル化に入っていくと内外に宣言したのです。そして今やGDPにおいては日本を凌駕するような段階に来たわけですね。明らかに「革命中国」の時代は後景に退いて、中国の言葉を遣えば「革命中国」から「富強中国」に転身したのです。

 冒頭に国共間あるいは中国と台湾との間で歴史解釈権をめぐる争いのさなかにあると申しましたが、歴史観の問題として捉えますと、もはや「革命中国史観」ではなく「富強中国史観」に依拠するようになっています。「革命中国史観」は旧中国から新中国への転換を強調しますが、「富強中国史観」というのは、どちらかというと旧中国、あるいは伝統中国の眼差しで見たほうが、よりよく理解できる見方です。辛亥革命にひきつけて言うと、南方の革命派よりは北方の洋務派・保皇派あるいは改良派の路線に近い。もちろん、中国共産党は、辛亥革命も中国革命も、文化大革命は全面否定していますけれども、自分たちが立ち上がって成し遂げた歴史的な遺産として、あるいは自らの政権の正当性の根拠として、その歴史的成果を揺るがすことはしません。しかし実情からすれば、むしろ「富強中国」のほうに入っているわけです。
(中略)
 ここで私は、中国政府とも台湾政府とも共通する継続革命という辛亥革命観を持ち出したいのです。四つの革命においてそれぞれ掲げられた課題、これは達成された部分もあれば、未完の部分もあります。その未完の部分が課題として残されているからこそ、この「革命中国」史観というのは保持し続けなければいけないと思うのです。

 四つの革命のバランスシートを想定してみましょう。例えば皇帝支配・王朝支配から共和へという流れは、不可逆的な流れとなって、この四つの革命を通して、もう戻ることはないと思います。王朝的な個人崇拝とか、東洋専制的な権威主義的統治とか、そういったものはあるにせよ、制度としての立憲共和という道は、革命が達成した揺るぎない成果だと思います。それから、「皇権」から「民権」へ、即ち皇帝支配による権力から人民主権へという主権の在り方。これも、もちろんいまの中国が果たして実質的に人民主権を実現していると言えるかどうかということはあるにしても、この国是というか、大前提はやっぱり揺らぐことはない。これも革命が成し遂げた成果だと思います。

 それから、これも本当に実現しているかどうかという問題は残りますが、憲政の実施ですね。これも国民政府の立場に立つと「軍政」「訓政」から「憲政」へといろいろな段階を踏んでいますけれども、やはり確固たる到達目標として掲げられています。それから革命事業を支えた反帝国主義、反植民地主義、反封建主義という時代精神も、やはり四つの革命に一貫して流れているものでした。

 ただその一方で、革命のために犠牲にした部分も確かにあって、それは民主化という課題だと思います。国民党の「訓政」、あるいは中国共産党の「民主集中制」という規定は、全人民の民主化という目標を先送りする。あるいは棚上げする結果を招きました。さらに自由と人権の尊重だと思います。孫文は亡くなる間際に革命の目的は「自由と平等をもとめる」ことにあった、これは未完であるという遺嘱を後に続く人たちに残しました。

楊:頑張りなさいと。
(中略)

宮脇:私が最近気がついて面白いと思ったのは、中国ではこの時期、三回も孔子と儒教を復活させていることです。一回目は袁世凱。つまり辛亥革命後すぐに、宋教仁を殺したあと、儒教復活とか、儒教に基いてとか言うわけですよ。あのころは、読書人と知識人は別の人たちなんですよ。知識人は孫文や日本留学組で、梁啓超は違います。科挙官僚は読書人なんです。読書人は科挙を受けるために、四書五経を読んで勉強して、古典の漢籍がわかる人。これに対して、文化人、知識人は古典には何の興味もなくて、日本語は読めるので、欧米の思想にかぶれた人です。これがちょうど辛亥革命のときのあの南北の争いにぴったりで、南方派は新しい文化人で、北方派は読書人だったんですけれど、袁世凱はこのときに、読書人をもう一度主流にするために、孔子と儒教を持ち出したんです。別に儒教が大事なんじゃなくてね。

楊:それが一回ですね。

宮脇:そして、二回目が共産党に対抗した蒋介石です。三回目は最近の孔子学院なんです。
 つまり、革命に失敗すると儒教や孔子にすがるんです。つまりは中国のアイデンティティーというか、中国とは何かとか、中国文明とは何かと言ったときに、ほかのものが見つからないということに気がついたんです。三回とも孔子と儒教ですよ。

馬場:日本では儒教というと内面的な修養とか倫理ということが強調されますが、中国の地場における儒教とは・・・。

宮脇:あれは漢字のわかる支配層という意味ですよ。

馬場:「内聖外王」という言葉がありますね。日本では「内聖」の方ばかりが注目されるのですが、「外王」即ち支配の原理ということも、中国の地場の思想としては重要です。支配を最上階からみれば天子=皇帝支配の論理・倫理になりますし、底辺からみると村落の指導層の統治論理・倫理となります。

村田:ここ数年、儒教と民主憲政を結びつけて、儒教憲政主義などと言う理論を持ち出している人もいますね。統治の思想としての儒教に光を当てようということのようですが。
宮脇:結局儒教というものは、科挙を受けるために勉強した経典であり、テキストなので、特定の階層を意味するんです。要するに支配階層のことなんです。

楊:中国はものすごい階層の進んだ社会ですから。そもそも上層階級の連中は下層階級の者を人間として見なさないこともありますから(笑)。




<中国は西方由来の思想に慣れていない>p140~144
楊:ぼくはこう思うんですけれど、コミンテルンの思想、いわば一種の共産主義思想が中国に伝わってから、革命が起こったというご説なんですけれど、それはインパクトとして、あるいは起爆剤としてはコミンテルン由来の革命思想の影響は大きいと思います。ただ結果から見れば、基本的に中国人すなわち漢民族はやはり西方の思想に慣れていないとつくづく思います、いまだに。

宮脇:はいそうですね。

楊:慣れていないから、どうしても古い革命を新しいイデオロギーの旗下でやるわけです。近代化の実現ができた日本からすると、「中国は革命ができない」という理論につながると思うんです。それから私たちのような清朝の旧藩部の出身者から見ると、中国は西方由来の思想に慣れていないどころか、再び中華思想に戻っていると思うんです。ここで再び中華民族論に話を戻しますと、89年に馬場さんがおっしゃる「第5の革命」がつまづいて、それで結局、人権、民主、共和といった西方由来の思想についていけないから、結局帰っていくのが、中華民族という空論しかないわけですよ。となると、満州帝国の五族協和の理念と、今の中国が言っている中華民族、両者を比較した場合、どういうふうに見えますか。

宮脇:まず中華民族ですが、毛沢東がどうして勝ったかというと、彼が一番中国人を知っていたから。コミンテルンの人も、モスクワ留学帰りも、長征で結局全部消えたんです。
楊:粛清していますね。

宮脇:毛沢東が生き残ったんですね。彼が一番中国人だったわけです。中国人には西方の思想が入らないのは当然で、知識階級というか、本を読める階層のパーセントが少ないですから、残りの大半が、伝統的な中国の昔からの生活をしていて、『三国志』とか『水滸伝』の話で生きている。毛沢東はそれらが大好きで、その中の短い警句なんかを使うのが非常に上手で、下層の兵士が彼を神様のように思ったって、ほんとにそうだと思うんですね。毛沢東だけが中国を知っていて、生き残ったということ。つまり中華民族とは、古い中国に戻るという思想です。だからヨーロッパ的な、みんなが同じようなレベルの教育を受けて、みんなが同じ新しいことを理解するという国民国家は中国には無理でしょう。無理なので、今のような政治形態に入る。私はだから、少数民族のほうがはるかにレベルが高いのは当たり前で、かれらは話し言葉が同じで自分たちの文字を持っているから、ある程度のレベルで一致した考え方を生み出せるので、かれらの方が実は近代化ができると思います。

楊:モンゴル国は90年代から民主化できたし、カザフスタンなどのような遊牧民の子孫からなる国もちゃんと民主化しつつあるということで、やっぱり旧藩部のほうが西側の思想に慣れているんですよ。

宮脇:サイズと話し言葉なんです、結局。日本と中国は同じ漢字文化圏というけれど、漢字の役割が違っていて、日本人は、平仮名・片仮名のおかげで、話し言葉も共通なんですけれども、中国はいまだに漢字だけが共通で、耳で聞くだけで全国民が理解できるというのではない。国土のサイズのせいもありますし、本当に文盲が全くなくなっているかもわからないので、郷紳を失ったことは非常に痛手なんです。郷紳階級があったこそのネットワークだったんですよ。それをひとしなみにしたってことは、ものすごく落ちこぼれを作ったということとイコールだと思うんですね。だから全体のレベルを上げることがすごく難しいんです。孔子学院は、せめて日本の寺子屋程度の教育を全国民にしたいという願望なのです。でも、論語の中身を理解できるかというと全然できなくて、論語と孔子の名前だけ知っている子が何億人もできるだけだと思います。上と下のレベルの乖離が大きすぎて、これに比べたら満州帝国は、五族協和も日本の教育も徹底していたし、サイズもよかったですし、日本の文化帝国主義っだとか、日本語を共通語にしたとか悪口言われますけれど、けれどもあそこが今の中国の近代化のスタートじゃないですか。毛沢東は戦後、満州さえ握れば勝てると言ったし、戦後の工業生産の九割が満州だったわけです。ただし、今はもう搾取されてしまって、南の沿海のほうにすっかり富強中国は移りましたけど。

<満州帝国と中華人民共和国>
宮脇:富強中国だって、結局は内陸に及んでいないわけですよ。同じ中国でも、沿海の外資の入ったところが富強中国で、内側の中国人社会にはなかなか発展がいかなくて、いきなり資源のある少数民族地区へ行ってしまって、そこで金もうけするという図式になるわけです。だから満州国というのはすごく大きな要素なんです。日本がやってみせて、モデルがあった。実は戦後の中華人民共和国は、満州国をモデルにして、いろいろなものを伝えていったし、満州国で教育をされた中国人が、そのあとの近代中国をつくった貢献者になっているんです。

楊:そうですね。


サイズと話し言葉なんですか・・・日本が突出したのはコレだったようです。

辛亥革命って (その1)

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