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zoom RSS 『ま、いっか』1

<<   作成日時 : 2017/08/09 08:18   >>

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<『ま、いっか』1>
図書館で『ま、いいか』という本を、手にしたのです。
浅田さんのエッセイ集はこれまで数冊読んできたが…
この本はタイトルにも表れているように気楽な感じの編集のようで、それもいいかも♪



【ま、いっか】
ま、いいか

浅田次郎著、集英社、2009年刊

<「BOOK」データベース>より
自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、軽妙洒脱な生き方指南。

<読む前の大使寸評>
浅田さんのエッセイ集はこれまで数冊読んできたが…
この本はタイトルにも表れているように気楽な感じの編集のようで、それもいいかも♪


rakutenま、いいか


言語に関心があるので先ず日本語のあたりを、見てみましょう。
p177〜180
<日本語の未来> 
 私が子供のころ、東京の小学校で「ねさよ運動」なるものが実施された。
 東京方言の特徴である「ね」「さ」「よ」等の語尾を、使わないようにしようという運動である。

 わかりやすく言うなら、たとえば本稿冒頭の部分を東京方言でしゃべるとすると、
 「俺が子供のころによ、東京の小学校でね、ねさよ運動ってのがさ、実施されたんだぜ」
 という具合になるのだが、つまりそれらの語尾は下品だから廃止しようというわけである。

 小学生のことだから、教師の指導に苦言を呈する者はない。そこで懸命に「ねさよ運動」なるものを実践しようとするのだが、これがまた難しい。何しろ生まれついて、言葉の切れ目には必ず「ね」「さ」「よ」「」等の語尾を付けているので、それらを取り去るとてんでリズムが合わないのである。

 小学校はいわゆる「山の手」の中野にあったが、日常会話の「ねさよ」には山の手も下町もないのである。「ぜ」はどちらかというと下町言葉に属するが、深川からの戦災難民である私の家ではもっぱらふつうに使用されていた。

 そもそも東京の山の手言葉を標準語とする根拠は怪しい。明治以来、東京は勢いよく西に向かって延びたから、山の手の定義が難しいのである。つまり級友たちのほとんどは、人口増加の結果西に移動した家か、関東大震災と戦災によって下町からやってきた難民の家か、あるいは下町以上に東京方言を温存する「原多摩人」の家の子なのだから、使用する言葉にはさほど下町だの山の手だのという境界はなかった。

 生れついての言葉を改めるのは実に難しい。子供らも往生したが教師たちも疑問は感じていたとみえて、職員室での議論を何かの拍子に耳にしたことがあった。
 「ぜ」と「よ」は改めたほうがいいが、「ね」と「さ」はこのままでいいのではないか、と提起した教員の意見を、なぜかはっきりと記憶している。おそらく自分でも然りと思ったからであろう。

 要するにこの運動は当初から無理があった。そのうち結果を見ることなく立ち消えになってしまったのは、けだし当然というべきであろう。私たちは大切な言葉を失わずにすんだ。
 今にして思えば噴飯ものである。昭和30年代なかばのことであろうか、戦後ひといきついたそのころには、「助け合い運動」とか「小さな親切運動」とか、社会がこぞって善行をなそうという妙なブームで、この「ねさよ運動」もその一環であったのかもしれぬが、だとしても文部省だか教育委員会だかの見識を疑う。

 かくして運動は挫折したが、その後の私はというと、日常会話では祖父母から受け継いだ江戸弁を使い、テレビ出演や講演会の壇上ではきちんと標準語をしゃべっている。言葉を矯正する必要などはないのである。


 この幼児体験と関係があるのかどうか、私は人がとやかく言う若者たちの言葉がけっして嫌いではない。街角や電車の中で彼らの会話に耳を傾けていると、文句をつけるどころかその独創性と感受性の豊かさ鋭さに、感心することしきりである。少なくとも私たち全共闘世代の、理屈っぽくて感傷的な言葉づかいよりもずっとすぐれていると思う。

 巷間言われるように、日本語が破壊されているとは思わない。世代には世代の言葉があって当然であり、それはいわば世代の文化であるから、前世代の常識が否定する権利はあるまい。何千年もかかって築き上げられてきた日本語が、今突然に破壊されようはずもなく、彼らもやがて社会の要請に応じて正しい日本語を使用するにちがいないからである。
 むしろ若い時分に、それぞれの世代の独創的な言語社会を持っていなければ、日本語は時代とともに痩せてしまう。伝統の言語に多少なりとも世代の言葉を加味してこそ、母国語は歴史の流れとともにゆったりと変化し、力を失うことがないのだと私は信ずる。そうした意味から考えれば、「ねさよ運動」なる言語の矯正は、伝統を破壊し、言語の自然な成育を妨げようとした愚行というべきであろう。

 いつの世にも、平和である限り若者たちはきちんと学問を積んでいる。その事実は信ずるべきである。


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