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zoom RSS 『戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々』

<<   作成日時 : 2017/05/16 08:31   >>

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<『戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々』>
図書館に予約していた『戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。
「テロには屈しない」と言いつつも、テロにはしゃぐかのような安倍さんの言説に、何やらきな臭さを感じる昨今であるが・・・
『FRONT』は秀逸なグラフィック誌として、時宜を得た本でないかと思うのです。


【戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々】
グラフィック
多川精一著、平凡社、2000年刊

<「BOOK」データベースより>
第二次大戦中、対外宣伝誌『FRONT』はいかに計画され、岡田桑三、原弘、林達夫、太田英茂、木村伊兵衛など東方社の人々がどのように関わっていったかを初めて明らかにする。本格的グラフ誌のモンタージュ手法、編集・視覚効果の圧倒的な宣伝力と素晴らしさを、多数の図版で紹介。

<大使寸評>
「テロには屈しない」と言いつつも、テロにはしゃぐかのような安倍さんの言説に、何やらきな臭さを感じる昨今であるが・・・
『FRONT』は秀逸なグラフィック誌として、時宜を得た本でないかと思うのです。

<図書館予約:(5/06予約、5/10受取)>

Amazon戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々


このグラフィック誌の運搬エピソードを、見てみましょう。
p101〜108
『FRONT』は潜水艦で運ばれた?
 1942(昭和17)年初め、「海軍号」「陸軍号」が相次いで発行され軍に納入された。前にも述べたが
東方社は軍事予算で運営されていたわけではなく、『FRONT』などの製品を買い上げてもらう形で経営していた。

 その納入先は必ずしも参謀本部だけでなく、各部隊や出先機関に個別に送られることもあったようだ。したがってそれから先の配布方法に関してはほとんどっわかっていない。「海軍号」が海軍でどのくらい買い上げたのかも不明である。ただ緒戦の華々しい戦果で気をよくしていた時期でもあり、内外の評判もよかったことから、これをぜひ国内にも配布したいとう要望もあって、8月に日本語版が内容を一部手直しして5万部増刷された。

 誌名は『大東亜建設画報』と変わり、定価1円80銭、発行者は日本電報通信社(現・電通)出版部、編集名義人はなぜか総務担当理事の杉原二郎になっている。

 ソ連とは敗戦直前まで中立を保っていたから、相当量が送り込まれていたと思われる。のちに東方社総裁になった建川美次中将は、開戦時ソ連駐在日本大使としてモスクワにいたが、1942(昭和17)年3月、離任の挨拶に外相モロトフを訪問したとき、その机の上に意図的であるかのように『FRONT』がデンと置かれているのを見たという。

 このころソ連はドイツ軍とスターリングラードで死闘を繰り返していたときで、日ソ両国とも長年の仮想敵国同士でありながら、手を出せない状況にあった。したがってソ連との交流はあっても、シベリア・東欧経由でヨーロッパに行く道は閉ざされていた。また日本とアメリカが参戦した後は海路もすべて戦場となり、船で中立国へ行く手段もなかった。しかし、あとでわかったことだが、このころ『FRONT』は中立国やドイツなどの枢軸国側ばかりでなく、敵国である英国にも少数だが渡っていた形跡がある。

 これについてヨーロッパへは潜水艦で運んだという説が、当時東方社内部でも流れ、関係者の間で今も信じられている。
 「戦時中ドイツと日本の間では定期的に潜水艦による連絡便があり、『FRONT』はこれに積んで中立国のトルコに揚げ、帰りにはライツ社のカメラや引伸機を運んだ」というのがそれである。

 しかし、これには疑問がある。当時日本とドイツ・イタリアの間で、何らかの方法で連絡をとることに努力を払っていたことは確かだが、潜水艦といえども英国海軍が押さえているジブラルタル海峡を突破して地中海を横断し、最奥のトルコの港に入るなど、まず不可能であろう。仮に往路はなんとかたどり着いたとしても、当然日本の潜水艦が入ったことはキャッチされ、港を出たとたんに撃沈されることは間違いない。

 この潜水艦による連絡便のことを書いたノンフィクション『深海の使者』(吉村昭/文春文庫)には、日独双方の乗組員の苦労がよく描かれている。これを読んでみても、ケープタウンから先は敵の制海圏下にあり、ドイツの占領下にあった大西洋岸のフランスの軍港ブレストやロリアンに入ることは並み大抵のことではなかったようだ。

 大部分は往路帰路に敵襲や事故にあい、日本の潜水艦もUボートも、無事往復できたものはわずかしかなかったという。そのような効率の悪い輸送手段で、陸軍のつくった重くかさばる宣伝物を運んだであろうか。おそらくこれは1942(昭和17)年秋、最初にフランスの軍港に入港した伊号第8潜水艦が、重要書類とともに数冊の「海軍号」を運んだというのが実相ではないかと思われる。

 しかし、敵味方を問わずヨーロッパの国々にまで『FRONT』がわずかでも渡っていたとすれば、おそらくシベリア鉄道経由で中立国トルコの日本大使館に運び、そこから外交ルートを通じて各国に運ばれたというのが真相であろう。また当時日本軍の占領下にあった中国の上海は、敵国をも含めて外国に通じる裏口でもあった。

 上海に運んだ『FRONT』は、すぐに地下組織を通じて国民政府側に渡り、そこからインド・中近東経由で英国に行ったり、また援蒋ルートで重慶に入っている米軍の手に渡るのはいとも簡単なことであった。軍がそうしたルートを意識的に使って敵側に配布をはかったことも十分考えられる。

電通も出版に絡んでいるが…昔も今もかぎりなく国策会社だったようですね。
今ではブラック企業のイメージが強いが技術的には見るべきものがあるようです。

ネットでFRONTを探してみました。

幻のグラフィックデザイン誌:FRONTより
フロント

FRONTという戦争グラフ誌をご存じだろうか。太平洋戦争時、錚々たるデザイナーによって制作された日本のグラフィックデザイン史に輝く傑作である。制作スタッフの一人だった多川精一氏による「戦争のグラフィズム」という書籍に詳しいが、ロシアアバンギャルドばりの「カッコイイ写真」で「ぞくぞくするような画面構成」をノリノリで追究した結果、とんでもない完成度に達することになったが、紙質がよすぎたり重かったりして結局効果的に配布できなかったらしく、まあ本来の目的(対外てきに日本の軍事力を宣伝すること)からはななめ上をいったようなキワモノ雑誌だったともいえる。費用対効果なんて頭になかったのだろう。

第二次世界大戦の少し前に、帝国陸軍参謀本部の肝煎りで、莫大な資金のもと「東方社」なる小さな謎の出版社(しかも株主に縛られる会社組織ではない)が設立された。従業員は、特高警察に追われている共産党員や、日本でトップクラスの芸術家・画家や写真家等で、戦時中も長髪のままスーツを着こなし、そこだけは自由を謳歌出来たという。

ソビエトのグラフ雑誌を参考に作られた、対外謀略用のプロパガンダ雑誌は「FRONT(フロント)」という。モンタージュ写真や、加筆により増えた艦隊や墜落する戦闘機等、改竄も激しいが、これらの技術は、戦后の写真界に多大な影響を与えた。見開き写真の構成も、他の雑誌を圧倒している。1989年〜1990年に、平凡社から極めて高価ながら僅かに復刻した事があったが、現在は品切れのまま重版未定の状況である。



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