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zoom RSS 『日本の起源』4

<<   作成日時 : 2016/11/24 23:40   >>

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<『日本の起源』4>
図書館で『日本の起源』という本を、手にしたのです。
與那覇先生の場合、夢のない結論におちつくことが多いのだが・・・
その論理が気になるので借りた次第でおます。


【日本の起源】
起源

東島誠×與那覇潤著、太田出版、2013年刊

<商品の説明>より
古代の天皇誕生から現代の日本社会までを貫く法則とは? 歴史学がたどりついた日本論の最高地点。
いつから私たちは「こんな国、こんな社会」に生きているのだろう。どうしてそれは変わらないのだろう。

<読む前の大使寸評>
與那覇先生の場合、夢のない結論におちつくことが多いのだが・・・
その論理が気になるので借りた次第でおます。

amazon日本の起源


「儒教化の後進国」とのくだりが気になるのです。
p245〜249
<アジア主義に可能性はあったのか>
與那覇:帝国日本とは東アジアにおける「近代化の先進国」である以上に、「儒教化の後進国」でしょう。そこを踏まえないと、植民地問題の位相にしても捉え間違うのではないか。
 たとえば一君万民の大正ラディカル・デモクラシーにしても、西洋型の議会制民主主義を乗り越えたさきに見えてくる秩序というよりは、東アジアの儒教的王権そのものです。この一君万民体制を、日朝比較の観点から初めて掘り下げたのは原武史さんの『直訴と王権』ですが、李氏朝鮮ではそもそも江戸時代に相当する時代から、王と民衆の距離が非常に近い。京都御所に閉じこもりきりだった当時の天皇と異なり、しょっちゅう国王が王宮を出て巡幸するし、その際に直訴することも認められていた。

 明治天皇の全国巡幸というのは、いわばあとから朝鮮を追いかけて「儒教化=一君万民化」していただけで、しかも非常に中途半端。行幸中の直訴が法的に認められたのは、維新当初のわずか3年だけで、のち1901年に足尾鉱毒事件について直訴した田中正造は、「この不敬なやつめ」と言われて捕まってしまうわけです。対して、朝鮮では国王の巡航中どころか、一般庶民のほうから王宮に入ってきてお願いするのも問題なかった。

東島:中世は日本でも御所内に庶民が出入りできたので、はたして後追いと言えるかどうか。それがだめと「アクセス禁止」が掲げられたのは戦国時代のことです。ただし、だめというのはそういう行為がむしろさかんに行われていた証左であって、清水克行さんは、最終的に1614年、大坂冬の陣の直前に京都所司代板倉勝重が厳禁するまで、「開かれた禁裏」が継続していたことを指摘されています。
(中略)
 いっぽう直訴はどうかと言えば、佐倉惣五郎や磔茂左衛門の例が有名ですね。ただこの場合、天皇ではなく将軍への直訴ということになりますし、時代も江戸前期がピークです。ところが幕末になると彼らを「義民」「義人」と呼ぶ風潮が生まれ、さらには自由民権運動と大正デモクラシーのなかで再顕彰されることで、直訴像が肯定されていくんですね。そうした直訴肯定の流れのなかで田中正造の行動を見るならば、それは命がけではあるけれど、突飛とまでは言えないように思います。

與那覇:なるほど。帝国時代の臣民は、むしろ中世には存在したが近世期に失われた「日本を取り戻す」ことを目指したのかもしれないと。ちょっと安倍自民党ふうですが(笑)。

東島:田中があそこまでできたのは、直訴文の原稿を書いた幸徳秋水をはじめ、内村鑑三、木下尚江ら、「理想団」という名の社会運動がしっかり後押ししていたからです。幸徳が鉱毒被害民の請願運動を支援すべく主張した「交通の自由」というのは、柄谷行人さんが「フクシマ」以来強調されている「デモが可能な社会」、つまりは「デモの自由」の、当時における表現です。じつはそれは、自由民権運動下で植木枝盛が主張した「思想・論説を交通するの権義」の流れを、脈々と受け継いだものなんですね。田中正造の背後にはこれだけの積み重ねがあったわけです。

與那覇:まさしく江湖の系譜であると。しかし問題は、東アジアの側からするとそんな秩序は、取り戻すまでもなくもともと現実だったということですよね。戦前の日本人があくまで君主政の可能態として夢見ていたことが、とっくの昔に現実態になっている。これが、帝国日本が「儒教化の後進国」だったことの含意です。

 だとすると、日本人が「われわれは欧米列強の帝国主義を超克して、東亜新秩序を追及している」などと言っても、それは西洋化と称しつつ中途半端な中国化(儒教化)しかしていない日本が、釈迦に説法というか「孔子に説教」している状態にしか、じつのところならないのではないか。

 これは、とくに朝鮮半島で顕著です。慎蒼宇さんの『植民地朝鮮の警察と民衆世界』によると、朝鮮の徳治主義とはすごいもので、なんと反乱が起きても説諭使を送って説得するのだそうです。日本の右翼が天皇に仮託する「権力ではなく心服による秩序」を、わりとガチンコでやっていた。2.26の青年将校が幻想した、「やむにやまれず決起に至った、われわれの内面に思いを馳せてくださる陛下」がちゃんといたわけです。日本の陛下は「鎮圧せよ」でおしまいでしたが(笑)。

 だから日本による併合の過程で義兵運動が起きても、朝鮮の王室は当初、説諭使を派遣してなんとか収めようとする。ところが統監府(併合後は総督府)の日本人は、なにせ儒教化の後進国で徳治社会のしくみがわかっていないから、「弾圧しろと命令したのに、なんで話し合いをしてるんだ。朝鮮人は全員反日勢力とグルなのか」となってしまうのですね。そうやって、もともとあった徳治のメカニズムを破壊するから怨みを買ってゆくのに、そもそもそれを自覚できない。

東島:与那覇さんふうに言えば、日本の場合、中世にはまだ中国化の芽があったが、江戸時代にその契機を喪失して、それを近代までずっと引きずっているということなわけですね。

與那覇:東島さんの用語では、中世禅林の江湖思想における「日本のなかの中国」となると思いますが、近世期にそれを失ってしまったことは、近代以降に中国・朝鮮の社会とつきあううえでも大きなマイナスになったと思うのです。日本の植民地統治が最終的に破綻することの起源も、そこまで遡って考えたい。


次に、唐物グローバリズムというくだりが気になるのです。
p34〜37
<唐物グローバリズムとクールジャパン政策の起源>
與那覇:平安時代と言えば、遣唐使廃止と国風文化の話はよく誤解されますよね。大学教員の側はいまや誰も信じていないのに、学生さんが全員前提にしている知識の典型でしょう。

東島:遣唐使の廃止によって、外国から何も入ってこなくなったから国風文化が花開いたというのが、世間一般の常識になっていますね。けれど、実際には中国の産品はどんどん日本に入ってきていて、「唐物」は重宝され、人事に影響力を持つ有力者に贈る賄賂としても好まれた、いわばブランド品でした。むしろ平安時代中後期に「メイド・イン・ジャパン」が前面に出てくるのは、いっぽうで「メイド・イン・チャイナ」がはやっていたからです。言い換えれば、もし唐の文化がシャットアウトされていたら、いわゆる「国風文化」なんて生まれなかったでしょう。

 ついでに言えば、そもそも「国風文化」なんて言い方は、言葉遣いとして間違っていますから、そろそろやめたほうがいいですね。平安時代に「国風」と言えば、「土風」と同義で、つまりは地方のお国柄という意味です。決して「日本風」という意味ではありません。
(中略)

與那覇:中国大陸の王朝の存在を意識するからこそ、本朝と言っていたのだと。本来、菅原道真の「白紙に戻す遣唐使」だって、自分が行く気が起きないからぐずぐずしているうちに沙汰やみになっただけで、明示的に廃止を決めたという史実はない。

 さらに踏み込んで言えば、日本に影響を及ぼしている中国というのは、往々にして日本人が頭の中で創り出した「中華」という幻影のほうだから、現実の中国との交流の有無とはかならずしも相関関係はない。

東島:つまり、中国というのは文明国の代名詞であって、かならずしも中国である必要はない。たまたまそこに存在する文明国が中国だったということですね。

與那覇:隣国に「グローバル・スタンダード」があって、そちらのほうが、国内の未成熟な政治や文化が出してくる中途半端なものより信頼されているという現象だと。それなら、古代に限らずよくある話ですよね。日本のアーティストが洋画や洋楽のほうがホンモノだということを前提に、どうやればそれと対等な「本朝物」が作れるかと悩んでいたのは、そんなに昔のことじゃない。



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