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<<   作成日時 : 2012/09/17 15:11   >>

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<台湾映画アンソロジー>
台湾にまつわる映画を、個人的に集めてみます。

・海角七号/君想う、国境の南
・冬冬の夏休み
・非情城市
・トロッコ

『海角七号』で印象的なのは、日本語で歌われた「野ばら」であるが・・・・
冒頭とラストで「野ばら」が日本語と中国語で歌われていて象徴的であるように・・・・日本が好意的に描かれた映画である。
確かにコミカルでほろりとしたところもあり見てて面白いが、これが台湾映画史上、歴代第一位のヒット作だって?
なぜ、この映画が台湾で受けるのか?ということの方が興味深いのです。

【海角七号/君想う、国境の南】
海角
ウェイ・ダーション監督、2008年台湾制作、H22年観賞

<goo映画解説>より
ミュージシャンの夢敗れ、台北から故郷の恒春に戻った青年アガは、郵便配達の仕事についたものの、無気力な日々を送っていた。そんな時、日本から中孝介を招いて行われる町おこしのライブに、前座バンドとして駆り出されることに。オーディションで集められたメンバーは寄せ集めで、練習もままならない状態。ひょんなことからマネージャーをする羽目になった日本人女性・友子とも、衝突してばかりだったが…。

<大使寸評>
台湾語と北京語の掛け合いの面白さは、日本人にとってはつんぼ桟敷でありわからないが、若しかしてそのあたりが台湾で受けた訳なのかもしれません。
監督は霧社事件の映画が作りたいのだが、スポンサーがつかないので、先ずこの長編第一作「海角7号」で実績を上げるつもりだったようです。
それが、歴代第一位のヒット作というがすごいですね。

goo映画海角七号/君想う、国境の南
「台湾ってかわいい!」―『海角七号』主演女優・田中千絵
海角七号 byドングリ



【冬冬の夏休み】
台湾
候孝賢監督、1984年台湾制作、H24.9.10観賞

<goo映画解説>より
祖父の住む田舎で夏休みの数日を過ごす、幼い兄妹の様々な人々との出会いと体験を綴った物語。監督は「風櫃の少年」の侯孝賢、脚本は侯孝賢と朱天文、撮影は陳坤厚が担当。出演は王啓光、リー・ジュジェン、陳博正ほか。

<大使寸評>
『海角七号』で「野ばら」が歌われたように、「仰げば尊し」や「赤とんぼ」が流れる台湾映画である。
また朱天文も住んだこともある日本家屋が、この映画の主人公といえるのかもしれないのです。
この作品が候孝賢監督、朱天文脚本という外省人コンビで作られたことに、外省人を見直した次第です。(大使は基本的に、アンチ外省人でおま)
対立を超えて外省人と本省人をつなぐものが、日本家屋や日本唱歌だったのかもしれないのが台湾事情なんでしょうね。(親日の台湾と思いこむことは能天気なんだけど)

goo映画冬冬の夏休み
「仰げば尊し」や「赤とんぼ」が流れる台湾映画byドングリ



【非情城市】
非情
ホウ・シャオシェン監督、1989年制作、H24.9.15観賞

<goo映画解説>より
'45年8月15日、台湾が51年にわたる日本統治から解放された日、田寮港の林家の長男文雄の妾宅で男児が誕生した。船問屋である林家の主は75歳の阿祿。次男は軍医として南洋に、三男は通訳として上海に、日本軍に徴用されて帰ってこない。耳が聞こえず話せない四男の文清は、郊外で写真館を開いていた。文清は、写真館に同居している教師の呉寛榮の妹で、看護婦として病院に働きに来た寛美を迎えに出る。寛榮は、小川校長の娘で、台湾生まれの静子と秘かに愛しあっていたが、日本人は故国に帰らねばならなくなった。

<大使寸評>
中国語映画 オールタイム・ベスト100!の栄えあるbP作品であるが、日本語も少し出てくるし、日本家屋も出てくるというように、日本が与えた影が随所に見られます。

goo映画非情城市


日本人監督、台湾人撮影監督が描く台湾ということで、ぎりぎり台湾映画の括りに入れた作品「トロッコ」です。

【トロッコ】
トロッコ
川口浩史監督、2009年制作

<goo映画解説>より
父を亡くした年の夏、敦(あつし)と凱(とき)の兄弟は母に連れられて、初めて父の故郷である台湾の小さな村を訪れ、祖父母に温かく迎えられる。敦は亡き父が大切にしていた古い写真にトロッコと写る少年が遥か昔の幼い祖父の姿だと知る。山林を走るトロッコに乗れば日本へ行けると信じていたと懐かしそうに語る祖父。ある日、母に置き去りにされるのではないかと不安を募らせた敦は凱を連れてトロッコに乗り込む。

<大使寸評>
台湾の景色のすばらしさが、よく表れています。
母親役で尾野真千子が出ているけど、気にもかけなかったのは、「カーネーション」放映前だったからでしょうね。

goo映画トロッコ
映画『トロッコ』予告編
「トロッコ」に触発されて、司馬さんの「台湾紀行」を読んでいるんですが


たまたま「中国・台湾・香港映画のなかの日本」という本を図書館で借りたのですが・・・
著者は日本語で歌われた歌に着目して中国・台湾映画を語っています。

【中国・台湾・香港映画のなかの日本】
台湾
林ひふみ著、 明治大学出版会、2012年刊

<「BOOK」データベース>より
陳凱歌、張芸謀、侯孝賢、楊徳昌、王家衛…。中国、台湾、香港出身で、二〇世紀末の国際映画祭を席巻した監督たちは、いずれも戦後生まれながら、例外なく日中戦争のトラウマを作品に映し出していた。そして21世紀。中国の馮小剛、台湾の魏徳聖が生み出した記録的大ヒット作のクライマックスシーンで日本語の歌が流れ、観客の心を癒やした。日本と中国語圏の近現代史を映画によって読み直す。

<大使寸評>
この本では日本語で歌われた「野ばら」と「知床旅情」に着目して・・・・そこから日中の近現代史に触れながら中国、台湾、香港の映画を語るわけです。
大使が映画で読みとれなかった台湾の悲しみなんかが、この本でよくわかりました。(礼)
著者は香港特派員を経験した中国通とのことです。

Amazon中国・台湾・香港映画のなかの日本

ことば紀行:林ひふみ【中国語】


この本の一部を紹介します。

<中国語映画に響く日本語の歌>p1〜3
 2008年、中国と台湾で、それぞれ現地映画史上最大のヒット作となるフィルムが封切られた。特筆すべきは、そのどちらもが、日本に関わる内容をもち、映画の中で歌われる日本語の歌が、観客の深い感動を呼んだ事実である。
 中国ではフォン小剛監督の『狙った恋の落とし方』。婚活をテーマとするラブコメディの後半で阿寒湖や知床半島など北海道東部が舞台となった。この映画がきっかけとなり、一時道東をたくさんの中国人観光客が訪れたことはニュースでも報道されたから、記憶にある人もいるだろう。ロケ地となった温泉旅館や居酒屋めぐりが人気だとは伝えられたが、作品の内容そのものが紹介されることはあまりなかったようだ。クライマックスとなる事件のあと、主人公の友人(在日中国人)が、北海道の原野をひとり車で飛ばしながら、「知床旅情」をまるまる2コーラス日本語で歌い、涙するというシーンがあり、全編2時間を超える作品中、最もしんみりする場面になっていた。

 台湾では魏徳聖監督の『海角七号−君想う、国境の南』。こちらは、台湾最南端の恒春半島を舞台とする音楽群像劇だ。1945年、敗戦とともに本土に引き揚げた日本人教師が、船の甲板で、恋人だった台湾人女生徒に宛てて書いた7通の手紙。当時投函されなかった手紙を入れた小包が、21世紀の台湾に届く。しかし宛先は植民地時代のもので、年老いた郵便配達員にも届けることができない。この宛先不明小包と、現地で日本人歌手のコンサートが開かれるにあたり急遽結成された前座バンドをめぐる物語だ。日本語で書かれた手紙が一通一通朗読されるため、これまで海外で製作された映画のうち、おっそらく最も多く日本語が聞かれる作品となった。そのクライマックス場面で、前座バンドの演奏が観客を熱狂させたあと、思いもかけず、シューベルト作品「野ばら」の日本語による大合唱が鳴り響く。ひとつひとつのパズルのピースを組み合わせるように、丹念に語られてきた物語が、この「野ばら」で予想を越えた大団円に結びつく感動は、言葉でいいあらわせないほどだ。




<『海角七号−君想う、国境の南』2008年、魏徳聖監督>p238〜242
 楊徳昌は数こそ多くないものの、貴重な作品を残したばかりか、重要な人材を台湾映画界への置き土産として育てた。2008年に長編第一作の『海角七号−君想う、国境の南』で、それ以前の台湾映画の記録をすべて塗り替え、洋画を含めても『タイタニック』に次ぐ史上第2位の興行収入をあげた魏徳聖監督である。
 1969年生まれの魏徳聖は、台湾南部の台南県出身。工業高専卒業後、兵役中に映画監督をこころざした。だが、映画関係の大学を出たわけではなくアルバイト生活を続けたのち、24歳のとき、ようやくつてをたどって映画製作の現場に職を得るとともに、独学でシナリオを書きはじめた。翌1994年には『水を売る息子』が優秀シナリオ賞を受賞。1995年に日本の林海象が台湾で『海ほうずき』を撮った際にアシスタントをつとめ、1996年楊徳昌の『カップルズ』で助監督に抜擢された。楊監督は気が荒く、スタッフは苦労が多かったが、「俺の頭の中身を想像する暇に自分の頭を鍛えろ」と貴重なアドバイスをくれたという。

 このように、いわば叩き上げの台湾本省人が監督となったケースは、それまでほとんど見あたらなかった。ニューシネマでは、呉念真がほぼ唯一の例外的存在だった。戒厳令下では国民党系外省人が社会を牛耳っていたため、本省人庶民には本当の意味での職業選択の自由は存在しなかったに等しい。1987年に戒厳令が解除されたのち、はじめて自分の好きな仕事につくことを考えられるようになった。だから、その年、18歳だった魏徳聖は、台湾本省人として好きな仕事につくことが許された最初の世代である。
 ところが、不運なことに、彼が映画界での修業を積むあいだに、台湾映画は未曾有の不況に見舞われはじめた。機会を待っていたのではいつまでたっても監督になれないと覚悟し、2000年には日本統治時代の先住民による反日暴動とそれに対する激しい弾圧事件、霧社事件(1930年)をテーマとする『セデックバレ』のシナリオを完成させ、投資者を募った。しかし、資金が集まらないまま、いたずらに時は過ぎた。そうこうするうち、2006年の夏、1ヶ月でシナリオを書き上げた『海角七号』が、台湾政府の新人監督向け補助金500万元(約1500万円)を獲得する。先にこちらを制作することが決まったものの、総経費5000万元(約1億5000万円)のうち、補助金分をのぞいた9割の差額は自宅を抵当に入れ、友人に投資をたのみ、銀行に頭を下げて調達した。監督個人の負債は3000万元(9000万円)にのぼったという。

 2007年9月30日にはじまった撮影は、同年12月25日に終了。翌2008年夏の台北映画祭で、『海角七号』はグランプリと100万元の賞金、そして最優秀音楽賞を受賞した、さらに、同映画祭の審査委員長をつとめた候孝賢から、「ずっとこういう台湾映画を待っていた」という絶賛を受けた。それは、台湾映画の主導権が、ようやく外省人から本省人に禅譲されたことを象徴する歴史的場面となった。
 『海角七号』はほとんど宣伝経費をかけられなかったにもかかわらず、一般公開されると同時に口コミで評判が広がり、台湾中で知らぬ者がないほどの人気作となった。一時は電車の中でも往来でも、誰もがこの映画を話題にしていたと伝えられる。そのおもな理由は三つあった。
 第一に、本省人(客家を含む)や先住民で構成される南台湾多文化社会の現実がいきいきと表現されたこと。第二に、台湾映画史上はじめて、登場人物のほとんどが台湾語と中国語のバイリンガルで、場面により自動的に言語の切り替えを行う様子がスクリーン上に再現されたこと。第三に、これまで台湾映画では、ほとんど真正面から取り上げられてこなかった旧世代本省人の日本に対する複雑な思いを描いたこと。呉念真が『多桑 父さん』で息子世代からの疑問を呈して14年。孫世代から出された回答が『海角七号』だった。 

 映画ではふたつの時代が交互に描かれる。冒頭は終戦直後、1945年の12月25日、台湾基隆港から引き上げ船高砂丸が日本に向けて出港する。中(あたり)孝介演じる日本人教師は、恋人の台湾人女生徒小島友子(日本風に改姓名している)を置き去りにし、ひとり船に乗り込んで日本に向かう。甲板でペンを走らせ、彼女に宛てて書いた手紙が日本語で朗読される。「1945年12月25日。友子、太陽がすっかり海に沈んだ。これで本当に台湾島が見えなくなってしまった。君はまだあそこに立っているのかい」。終戦により、台湾が日本に「捨てられた」ことが、はじめて映画で表現された瞬間である。

 従来、宗主国による植民地の放棄は、「解放」ととらえられてきた。台湾でも当初中華民国による接収が歓迎されたようすを、たとえば候孝賢の「非情城市」が描いている。しかし、同作品にも出てくるように、1年半たらずのうちに起きた二二八事件によって、本省人と外省人のあいだに埋めることのできない溝が生まれた。1949年に国民党政府が台湾に移転し、戒厳令を敷いてのちは、本省人にとって、白色テロ下を生き延びるのに精一杯の時代が1987年まで続いたのである。



<エピローグ 映画が癒す戦争のトラウマ>p265〜268
 中国が単純な反日ではないように、台湾も単純な親日ではない。それぞれに深い思いがあり、その心の働きが多くの映像作品に投影されている。ひるがえって、日本人は、日本映画は、中国や台湾に対し、そのような深い思いを抱いてきただろうか。
 本書では、おもに国際的映画祭で受賞するなど評価の高い作品から、日本に関連したものを選んで取り上げた。これ以外にも、日本人が登場する中国語映画は少なくない。中には、銃剣、軍犬、ちょび髭、「バカヤロ」などステレオタイプ的な「日本鬼子」像も珍しくはない。しかし、中国語映画史を俯瞰したとき、かつての戦争における日本軍の姿を正面から描いた作品は、決して多くはないのだ。中国史における重要性を考えるならば、日中の戦争は、まだ本格的に映画化されていないとすらいえる。

 したがって、『狙った恋の落とし方』と『海角七号−君想う、国境の南』が中国と台湾で観客に大きなカタルシスをもたらして早々、それぞれの地で、日本との戦いを正面から撮った作品が公開されたことも意外ではいえない。中国では陸川監督の『南京!南京!』(2009年)が1937年の南京大虐殺を取り上げ、台湾のホン智育監督の『1895』(2008年)が台湾領有戦争を取り上げた。さらに2011年には魏徳聖監督がとうとう『セデックバレ』を完成させて、1930年の霧社事件を前後偏計4時間37分の大作に描き上げた。

 これらの作品は、いずれも日本人俳優を起用してリアリティを追求し、歴史を公平に描こうという明白な意思を感じさせる。その結果、現地では日本に甘いという批判も浴びている。にもかかわらず、日本ではかつての戦争が映画の題材として取り上げられるというだけで緊張が走り、『南京!南京!』は一般公開が難しくなった。1980年代に『紅いコーリャン』が上映されても「反日」だと見られなかったのとは大違いである。
 仮に、戦後年月が経過するにしたがい、日本人の戦争に関する知識が低下しているためだとすれば、ぜひとも戦時中に日本人自身が書いた文章を読むことをおすすめしたい。石川達三「生きている兵隊」、火野葦平「麦と兵隊」の記述と比べれば、中国語映画の描写はおとなしいとさえいえるだろう。
(中略)
 『南京!南京!』は、中国で上映10日目に興行高が1億元を越し、陸川は張芸謀、陳凱歌、そしてフォン小剛らにつづき、中国史上5人目の「1億元監督」となった。『セデックバレ』も試写会に与野党党首が顔をそろえるなど、台湾社会全体から支持を受けている。中国や台湾の観客にとって、日本との戦争を正面から描いた映画は、まだまだ十分ではないのだ。そして若い監督たちは、トラウマをひきずっていた戦後世代とは異なり、民族的な感情から離れて、歴史的事実に対する芸術的ないしは商業的な関心をもって映画づくりに取り組んでいる。日本人の側で、まずは映画を映画として見たうえで論評するというあたりまえのことができにくいとすれば、それこそ戦争のトラウマが若い世代にまでおよんでいる証しだ。戦後中国語映画の監督たちが示してきたように、映画は見るものに癒しを与えることができる。であれば、日本にこそ、観客が本質的なカタルシスを覚えるような映画が求められているといえるかもしれない。  





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