『「地球のからくり」に挑む』4

<『「地球のからくり」に挑む』4>
図書館で『「地球のからくり」に挑む』という新書を、手にしたのです。
地球科学者が語る科学と文明史ってか、ちょっと地味めであるが・・・興味深いのでおます♪



【「地球のからくり」に挑む】
地球

大河内直彦著、新潮社、2012年刊

<「BOOK」データベース>より
地球は謎の塊である。その塊からエネルギーを次々に獲得し、万物の長となった人間は、今やエネルギー中毒に罹っている。なぜこんなことになったのか?そもそも地球の定員は何人か?宇宙から飛来した石油の源、毒ガス開発学者が生み出した新肥料、未来の新エネルギー…第一線の地球科学者が工学、文化人類学、文学などの広範な最新知見を縦横に駆使し、壮大な物語を綴る。科学と文明史が見事に融合した快作。

<読む前の大使寸評>
地球科学者が語る科学と文明史ってか、ちょっと地味めであるが・・・興味深いのでおます♪

rakuten「地球のからくり」に挑む

炭田

炭鉱や屯田兵について、見てみましょう。
p152~154
<北海道の開拓と燃料>
 北海道と石炭の関係は深い。まだ「蝦夷地」と呼ばれていたこの地ではじめて石炭が採掘されたのは、安政4年(1857年)のことだ。幕末にアメリカと結んだ和親条約により、横浜や函館を含む五つの港を外国船に開放する。それぞれの港では、来港する外国船のために石炭を用意しておかねばならなかった。

 函館港に運び込まれる石炭として最初に選ばれたのは、釧路の西隣、白糠で見出されたものだった。白糠での採炭は、幕府の官営事業として始まった。しかし不利な地理的条件と、炭鉱夫の不足によって、数年後には事業は中止される。そして代わりに、積丹半島の付け根付近に位置する茅沼で石炭が採掘され、函館に運ばれた。茅沼では、炭鉱から海岸までおよそ3キロメートルにわたって小型の鉄道が敷かれ、わが国で初めて蒸気機関車が走った。

 江戸幕府が倒れ、時代が明治になると、蝦夷地は「北海道」と改名される。
政府はアメリカから地質学者を招聘し、北海道の地質図を作らせるとともに炭田を探索させた。川砂を調べ、その中に混じる石炭の破片を目印に、上流へ追跡していくのである。幌内や夕張の炭田はこのようにして発見された。

 後に石狩川一帯に点在する炭鉱はまとめて石狩炭田と呼ばれ、筑豊と並んでわが国最大の炭田として栄えることになる。

 お雇い外国人たちが北海道の調査に勤しんでいた頃、明治政府の主導で屯田兵が組織あれた。彼らは、ロシアの脅威から国を守ることと、北海道の開拓という二つの重要なミッションを背負っていた。つまり屯田兵とは、普段は開拓に勤しみ、有事の際は兵士となって戦う人たちである。

 明治初期に最初の屯田兵として雇われたのは、幕末の動乱において旧幕府側についた東北地方の士族、つまりかつての武士たちであった。彼らにとって北海道とは、人生再出発の地だったのである。

 札幌市北西部の琴似に、かつて屯田兵が暮らした家が今でも残されている。明治8年、家族を含め1000人足らずの最初の屯田兵が、この琴似に入地した名残だ。初期の屯田兵は、石狩地方を中心に展開した。しかし、奥深い原生林と水捌けの悪い泥炭地が彼らの行く手を阻んだ。低温の夏と冬の厳しい寒さで作物や家畜の育ちは悪く、初期の屯田兵の苦労は筆舌に尽し難かった。

 かつて私は、琴似に3年ほど暮らしたことがある。騒々しく活気に溢れた都内での生活を長らく経験した後だった。町中に響きわたる函館本線を駆け抜ける列車の汽笛と、鉛色の冬空を背景に、白く染まった手稲山の景色が印象的だった。最初に入植した屯田兵たちは、いったいどんな想いで雪の手稲山を仰ぎ見たのだろう。

 屯田兵たちは、西南戦争や日露戦争で実際に動員された。特に日露戦争では、旭川の屯田兵によって組織された第七師団が、激戦地として知られる203高地に送り込まれた。乃木希典大将のもと第七師団は死力を尽くし、死傷者総数およそ1万7000人を数えた203高地の激戦において、最も死傷者の比率が高かった。

 一方、日露戦争の頃になると、戦艦三笠をはじめ石炭を燃料とする大型の軍艦が活躍するようになる。幌内で採掘された石炭は良質で、こういった軍艦の燃料としても用いられた。

ウーム 勝てば官軍、幕府軍残党の悲哀は日露戦争まで続いていたのか。

『「地球のからくり」に挑む』3:蒸気機関と森林破壊・再生の関係
『「地球のからくり」に挑む』2:ハーバー・ボッシュ法の光と影
『「地球のからくり」に挑む』1:「ハーバー・ボッシュ法」の登場

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