『若い読者のための短編小説案内』4

<『若い読者のための短編小説案内』4>
図書館で『若い読者のための短編小説案内』という本を手にしたのです。
村上春樹が取りあげた作者、作品に、時代の古さが感じられます。


【若い読者のための短編小説案内】


村上春樹著、文藝春秋、1998年刊

<「BOOK」データベース>より
戦後日本の代表的な作家六人の短編小説を、村上春樹さんがまったく新しい視点から読み解く画期的な試みです。「吉行淳之介の不器用さの魅力」「安岡章太郎の作為について」「丸谷才一と変身術」…。自らの創作の秘訣も明かしながら論じる刺激いっぱいの読書案内。
【目次】
吉行淳之介「水の畔り」/小島信夫「馬」/安岡章太郎「ガラスの靴」/庄野潤三「静物」/丸谷才一「樹影譚」/長谷川四郎「阿久正の話」

<読む前の大使寸評>
借りたのは1998年刊の単行本である。
村上春樹が取りあげた作者、作品に、時代の古さが感じられます。
(表紙は2004年刊の文春文庫のものです)

rakuten若い読者のための短編小説案内


「阿久正の話」の続きを、見てみましょう。
p220~224
 シベリア抑留衛活五年の「時差」を抱えた長谷川四郎にとっても、そろそろ「平常復帰」の時期が来ていたのでしょう。そのようにして彼は戦後日本の日常の中に足を踏み入れて行く。こうしたことのひとつの象徴として、あるいは道標として「阿久正の話」が生まれてきます。大事な時期にある作品です。

 題を見ればおそらくおわかりのように、これは魯迅の「阿Q正伝」のもじりになっています。それで今回実に久しぶりに「阿Q正伝」を引っぱり出して読み返してみたのですが、正直に言って「阿Q正伝」と「阿久正の話」が持っている共通項というのが、僕にはもうひとつよくわかりませんでした。

 このふたつの小説は話としてもあまりにも違うし、主人公の立場もあまりにも違っています。だからこのふたつの作品を並べて正面切って比較対照しても、それほどの意味はないのではないでしょうか。おそらく長谷川四郎は社会における一人の「常民」の姿を描きたかったのであって(阿Qは正確には「常民」以下ですが、まあ広義にとらえて)、タイトルにはそれ以上の意味はないのではないかと僕は思います。

 「阿久正の話」には書き手である「私」と、主人公である阿久正が出てきます。「私」はおそらく作者のヴォイスと見て差し支えないでしょう。「じゃあ阿久正は誰だ」ということになるのですが、これがもうひとつすっきりと見えてこないんですね。魯迅の「阿Q正伝」は、作者が自分とまったく違う阿Qという人間の姿をぽったりと描ききることによって、そこに魯迅自身の苦しみや哀しみが浮び上がってくるという構図になっています。
 その二重性が作品に深い奥行きを与えています。ところが「阿久正の話」はそういう構図にはなっていません。
 講談社文芸文庫から出ている「阿久正の話」の表紙のコピーにはこうあります。

「シベリア捕虜体験を経て、戦後の日本に帰還した作家は、戦場での生と死を見詰めると等質の同じ澄んだ視線から街の隅に息づく庶民の一人ひとりの生きる姿を凝視する。平凡極まる無名の生活者、阿久正の中に、結晶の如く光る生の真実を淡々と語っていく(後略)」

 たしかにそのとおりですね。これは文学史的に見れば実にまっとうな作品の捉え方だと思います。コピーとしてもよく書けている。でも実を言うと、今回この作品を読み返してみて、「本当にそうなんだろうか?」と僕は腕組みして考え込んでしまいました。阿久正は本当に「平凡極まる無名の生活者」なんだろうか、と。

 はっきり言って、僕にはそうは思えないのです。たしかに外面的に見れば、阿久正はあまりぱっとしない一介の平凡なサラリーマンです。商業学校中退で、通勤に二時間もかかるへんぴな郊外に自分の手で一部屋しかない家()を建てて、そこに奥さんと二人でひっそりと暮らしている。
(中略)

 死んだってべつにまわりに惜しまれることもなく、適当に粗雑に扱われます。まさに絵に描いたような「庶民」ですね。
 ところが不思議なことに、実際にここに描かれている阿久正という人間は、よく読んでみるとぜんぜん庶民じゃないんです。看板はたしかに庶民だけれど、中身はそうじゃない。どちらかというとむしろ「遊民」に近いですね。

 実直にこつこつ働いて、健常な市民として給与生活はしているけれど、それ以外の面では彼は非常に個人的で、悠々と自分のペースを守って生きている。生活は苦しいかもしれないけれど、にもかかわらずぜんぜんあくせくしていない。これは普通の庶民じゃありません。じっと目を凝らすとそこに見えてくるのは、まさに長谷川四郎自身の姿です。僕はそう感じます。

 要するに彼は阿久正という「常民」の姿を借りて(あるいは半分だけ借りて)、自己を語っているのではないか、そういう印象を強く受けました

 それが作者=長谷川四郎のそもそもめざしたことなのかどうか、僕にはそこまではわかりません。彼は最初からそういうポジションをとって小説を書こうとしたのかもしれません。あるいはまた、本来は「平凡極まる無名の生活者」を描きたかったのかもしれない。でも書いているうちにに自然にそういう方向に流れてしまったのかもしれない。

 どちらせよ、結果的に言えば、小説そのもののむいている方向と、書かれている内容のむいている方向は一致していません。僕はそう思います。そして結局のところ、そおれがこの「阿久正の話」という作品の優れて面白いところであり、また同時にまとまりを欠いている根本的な原因でもあると思うのです。

 更に言えば、長谷川四郎には「平凡極まる無名の生活者」(あるいは政治的に言えば「プロレタリアート」)の姿はリアルには描けなかったのではないか。彼は良くも悪くもそういうタイプの作家ではなかった。そういう現実の相を描くためには、彼の小説スタイルはあまりにも日常的利害感覚を超越しすぎていて、あまりにも個人的で、あまりにも芸術的アリストクラートだった。

 だから物語の入れ物を庶民に設定しながら、そこに入れる中身としては、自分自身を流用しいなくてはならなかったのです。そして長谷川自身はもちろん「常民」でも「庶民」でもなかった。長谷川は永遠の非常民=遊民です。


『若い読者のための短編小説案内』3:安岡章太郎「ガラスの靴」
『若い読者のための短編小説案内』2:丸谷才一「樹影譚」
『若い読者のための短編小説案内』1:長谷川四郎「阿久正の話」
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