村上春樹『雑文集』1

<村上春樹『雑文集』1>
図書館で村上春樹『雑文集』という文庫本を手にしたのです。
目次を見ると翻訳に関する箇所もあり、借りる決め手になりました。

ところで家に帰って調べてみると、この本を借りるのは2度目であることが分かり、2017年2月に紹介記事まで書いていました(またか)。


【雑文集】


村上春樹著、中央公論新社、2020年刊

<「BOOK」データベース>より
デビュー小説『風の歌を聴け』新人賞受賞の言葉、伝説のエルサレム賞スピーチ「壁と卵」(日本語全文)、人物論や小説論、心にしみる音楽や人生の話…多岐にわたる文章のすべてに著者書下ろしの序文を付したファン必読の69編!お蔵入りの超短篇小説や結婚式のメッセージはじめ、未収録・未発表の文章が満載。素顔の村上春樹を語る安西水丸・和田誠の愉しい解説対談と挿画付。

<読む前の大使寸評>
目次を見ると翻訳に関する箇所もあり、借りる決め手になりました。

rakuten雑文集


作家活動の前にはジャズ喫茶のオーナーだった村上さんであるが・・・
ジャズの薀蓄が語られているあたり(特に歌詞の翻訳について)を、見てみましょう。
p216~220
<言い出しかねて>
 何かをすると、何かの歌が反射的に頭に浮んでくるということがある。あなたにはありませんか? たとえば(あくまでたとえばだけど)大きな海を前にすると「海は広いな、大きいな」という歌がつい口に出てしまったりするかもしれない。あるいは口に出さないまでも、頭の中でそっと自然にその一節を追っていたりするかもしれない。

 考えてみれば、あなたはたぶん6歳のときにも、15歳のときにも、32歳のときにも、広い海を前に出たら、「海は広いな、大きいな」と歌ったり、思ったりしていたわけで、いささか大げさな言い方を許していただけるなら、つまりその歌の一節がひとつの連続的な行為として、一本の(ささやかな)縦糸として、人生を貫いてきたということになる。

 そしてあなたは、あなたの中に潜んでいる、6歳や15歳や32歳の自分自身たちと、「海を前にした」心情をわずかのあいだにせよ、いわば反射的に、共有する。そしてそれはなかなか悪くない気分なのだ。

 僕らの人生とは、記憶の積み重ねによって成り立っている。そうですよね? もし記憶がなかったら、僕らには今現在の僕らしか、頼るべきものがない。記憶があればこそ、僕らは自己というものをなんとかひとつに束ね、アイデンティファイし、存在の背骨のようなものを(たとえそれがひとつの仮説に過ぎないにせよ)とりあえず設定することができる。

 前置きが長くなってしまったけど、僕は飛行機に乗ると、いつも反射的に「言い出しかねて」という歌を思い出す。「言い出しかねて」(“ICan't Get Started" )はアメリカの古い歌で、作曲はヴァーノン・デューク、作詞はアイラ・ガーシュイン、1930年代後半に大ヒットした。なかなかしゃれた歌詞なので、冒頭の部分を書き出してみる。

 僕は飛行機で世界一周もした。
 スペインの革命も調停しいた。
 北極点だって踏破した。
 でも君を前に、その一歩が踏み出せない。

 なにしろ1930年代のことだから、飛行機で世界一周するなんて、すごい大冒険だったのだ。普通の人にはちょっとできることじゃない。北極点? そう、北極点もまだほとんど未知のままだった。そしてそのころ、ちょうどスペインでは激しい内戦が繰り広げられ、共和制を支持する情熱的な冒険家たちが(たとえばアーネスト・ヘミングウェイなんかが)、義勇軍に参加してファシストと戦うべくスペインに向かっていた。

 たぶん飛行機(プレイン)と韻を踏むために、スペインを持ち出しただけだと思うんだけど(この手の小唄に政治ネタが持ち込まれることはきわめて珍しいから)、この歌詞を聴くと、1930年代のロマンティシズムみたいなんものが、情景として僕の眼前にすっと浮かび上がってくる。日本で言えば昭和初期、1929年の大恐慌の傷跡もまだ深く、世界的に言っても決して明るい時代ではなかったし、それからあとの時代は大きな戦争に向かってますます暗くなっていくわけだけど、それでも人々は暗い雲のまわりに、希望の縁取りを探し求めていたのだ。その気持ちは、その時代には生まれていなかった僕にも、なんとなくわかる。誰だっていつだって、暗い雲のまわりに、ロマンティックな淡い光を求めて生きているものなのだ。

 たとえばシドニーに向かう飛行機。出発は夜、細かい雨が降っていて、成田空港の管制塔の灯が遠くにぼんやりにじんで見える。僕は一人でシートの中にいる。膝の上に読みかけの本がある。出発前のシャンパンが配られる。こうなるともういけない。何がどうあろうと、「言い出しかねて」の最初の部分が自動的に頭に浮んでくる。
 
 I've flown around the world in a plane.
 I've settled revlution in Spain.
 And the Noth Pole I have charted.
 But can't get started with you.

 そして僕は目を閉じ、スペイン戦争のことを思う。僕はスペイン戦争に参加したことはないし、参加しようと思ったこともないけど(だってまだ生まれてもいないものね)、それでも、僕は否応なくスペイン戦争的な時代風景の中に戻っていく。そして頭上の暗雲と、その裏側にあるはずの、明るく温かい太陽のことを考える。

「言い出しかねて」は60年以上前に作られた、いかにもセンチメンタルな小唄なので、さすがに最近では演奏されることが少なくなった。若いジャズ・ミュージシャンは、こんな骨董品みたいな曲はまず取り上げない。歌詞だって、若い人にはなんのことだかさっぱり理解できないだろう。「スペインの革命? 北極点?」みたいなことになるはずだ。

 いや、「言い出しかねる」なんていった心持ちだって、下手したらうまく伝わらないかもしれない。でも昔のミュージシャンは、好んでこの曲を演奏した。バラードの定番みたいなものだった。


2017年2月の紹介箇所を付けておきます。
『村上春樹 雑文集』2:翻訳のあたりp224~226
『村上春樹 雑文集』1:物語の善きサイクルp400~403


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