『村上春樹、方法としての小説』2

<『村上春樹、方法としての小説』2>
図書館で『村上春樹、方法としての小説』という本を手にしたのです。
村上さんの物語の秘密が載っているとのことで・・・借りる決め手になりました。



【村上春樹、方法としての小説】


山愛美著、新曜社、2019年刊

<「BOOK」データベース>より
洞窟の中のストーリーテラー、村上春樹。その創作の原点はどこにあるのか?幼少期のエピソード、作品・インタビュー中の言葉に着目し、独自の方法で紡ぎつづける物語の秘密に迫る!
【目次】
序章 自発的に語り始める「物語」/第1章 方法としての小説、そしてはじまりの時/第2章 初めての物語としての『風の歌を聴け』/第3章 デレク・ハートフィールドの世界/第4章 言葉・身体/第5章 記憶・イメージ/第6章 創作過程を探る/終章 想像力と効率

<読む前の大使寸評>
村上さんの物語の秘密が載っているとのことで・・・借りる決め手になりました。

rakuten村上春樹、方法としての小説



次に、第3章で「騎士団長殺し」あたりを、見てみましょう。
p103~104
<5 デレク・ハートフィールドの短編「火星の井戸」>
 無数に掘られた、決して水脈に辿り着くことのない底なしの井戸は、決して水をもたらすことはない。あまりの深さ、あまりの横穴の長さに井戸に潜ってみた人々も引き返した。

 井戸に潜り、曲がりくねった道を歩く青年は、井戸の底に潜った『ねじまき鳥クロニクル』(1994-1995)の「僕」、岡田享の姿と重なる。そして、高齢者養護施設の一室の穴から地底に降り、暗闇の中を歩く、『騎士団長殺し』(2017a)の中の一人称の語り手「私」の姿とも重なる。

 そこで出会った顔のない男は「私」に「わたしの役目はおまえを向こう岸に渡してあげることだ。無と有の狭間を、おまえにすり抜けさせるのが仕事だ」(『騎士団長殺し第2部』)と言う。ここでの「無と有の狭間」とは、「在」と「不在」の間、つまりハートフィールドを通して村上が描いた世界である。『騎士団長殺し』の「私」はそこをすり抜けて、無事に元のこちらの世界に戻ることができたのである。

 しかし、その後、「私」は顔のない男に肖像画を描くことを求められるも、戸惑い、描けぬうちに、その男は「いつか再び、おまえのもとを訪れよう。そのときにはおまえにも、わたしの姿を描けるようになっているかもしれない」(『騎士団長殺し 第1部』)という言葉を残して去っていく。

『騎士団長殺し』は(本著を執筆している現時点で)第1部、第2部が出版されているが、この後続編があるのかはわからない。顔を持たない人の肖像を描く、つまり「ただの無」(第1部)を描くということである。それはただの「無」とは言うものの、東洋思想における「無」(これは決して何もないということではない)のことも頭をよぎる。1979年に始まった村上春樹の在と不在のテーマは、2017年(『騎士団長殺し』が出版された年)、いよいよ最難関の最終段階まで来たのかもしれない。

 村上春樹の『騎士団長殺し』よりもデレク・ハートフィールドの「火星の井戸」の方が、荒削りではあるが、スケールという点では圧倒的に大きい。何と言っても「火星の井戸」は宇宙レベルの話である。火(火星)、土、水、風は宇宙を構成する四大元素であり、この物語はそのレベルの視野を持って語られている。四大元素のうちの「水」にどうしても辿り着くことができないという、「四」のうち「一」を欠いた物語なのである。

 人間は、本当に宇宙の広大さに気づいてしまったら、生きていくのが難しくなるのではないか。しかも、ハートフィールドの描いた(とされる)世界は閉じていない。つまりそれは、どこまでいっても閉じることのない、際限のない世界なのである。

『村上春樹、方法としての小説』1



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