『朝鮮人のみた中世日本』3

<『朝鮮人のみた中世日本』3>
図書館で『朝鮮人のみた中世日本』という本を手にしたが・・・・
中国人海商や倭寇の活動が興味深いのでおます。


【朝鮮人のみた中世日本】


関周一著、吉川弘文館、2013年刊

<「BOOK」データベース>より
室町時代、使節や漂流者として日本を訪れた朝鮮の人びと。当時の衣服・髪型から倭寇、食事と酒、稲作の方法まで、彼らが観察した日本の姿を、日本史料で検証して紹介。中世日本の社会・文化を異なる視点から見つめ直す。

<読む前の大使寸評>
中国人海商や倭寇の活動が興味深いのでおます。

rakuten朝鮮人のみた中世日本




『老松堂日本行録』往路で対馬あたりを、見てみましょう。
p57~60
<対馬と壱岐>より
■対馬の披慮唐人
 次に、宋希ケイは「唐人」と題した詩を詠んでいる。
 希ケイの船を見て、一人の倭人(老人)が近づいてきた。その倭人は、小舟に乗って魚を捕らえて生活しており、希ケイ一行に魚を売ろうとした。希ケイが舟の中を見ると、一人の僧侶がおり、ひざまづいて食糧を乞うた。希ケイは、食糧を与え、僧侶の境遇について尋ねた。僧侶は、「自分は中国江南台州の小旗であるが、二年前(1418年)に捕らえられ、ここに来て、髪を削られて奴となった。辛苦に耐えないので、自分を連れていってくれ」と答え、涙を流した。

 倭人は、「米を自分にくれるなら、この僧を売ろう」と話をもちかける。希ケイは、僧に対し、この島での居住地の地名を尋ねると、僧は「自分は転売され、この倭人に随って二年になるが、このように海に浮んで暮らしているので、地名を知らないのだ」と、答えた。こうしたやりとりを踏まえて、希ケイは、次のように詩を詠んだ。

 披慮の唐僧舟底につまづき、哀々と食を乞い艱辛を訴う うえを執る老賊は頭を回らして語る 米を給わらば吾れまさに此の人を売るべし
 
 披慮唐僧の哀感を誘う境遇と、倭人の「老賊」とが、生々しく対照的に描かれている。川越康博氏によれば、「小旗」は、明の軍制上のポストである。当時、明は衛所制度をとっていたが、一小旗は兵士10人を率いていた。したがって、この「唐人」は台州衛に属していた軍人ということになる。

 そして1418年には、金山衛とその周辺を倭寇が襲撃しており(明『太宗実録』永楽16年)、その際に捕虜となったものと川越氏は推定している(川越康博『明代異国情報の研究』1999年)。したがって、この披慮唐僧は、台州衛の小旗が、1418年の倭寇侵攻の時に捕らえられ、転売されたものである。

 彼は、漁師に囚われ、漁を手助けしているとみられる。そして「奴」になる際、髪を削られ、僧体になっている。また彼を使役する漁師は、海に浮んで(船上で)生活している。そして米との交換で、彼を売ろうとしていた。

 ここでは、披慮人は、海上の漁業活動に使役されている「奴」であったのである。僧体であることが、彼の身分を表している。また米と交換で転売される可能性があり、その点から商品であったといえる。そして披慮人を使役する者は、海上に生活する漁民(海民)であった(関周一『中世日朝海域史の研究』)。

■己亥東征の爪跡
 次の「尼語」では、次のような序を記している。
 宋希ケイは、きしの上に建物があるのを見た。通事のユン仁輔は、「これは、尼舎です」と告げた。そこで宋希ケイは、尼舎を訪れて、尼に会った。尼は、仁輔とは旧知の間柄であった。尼は、仁輔に対して「今官人に従って来られたのは、どういうわけがあるのですか」と尋ねた。

 仁輔は、「日本からの使節への回礼です」と説明した。尼は喜んで「それでしたら太平の使です。我らも生きることができます」と言った。希ケイは、次の詩を詠んだ。ちなみに自らを中国の使節を指す「天使」と称している。

 草舎の残尼は通事と遭い 回礼と驚き聞きて自ら情を陳ぶ 去年上国行兵の後 天使今来り再生を喜ぶと

ウーム 当時の東シナ海は、日中韓の荒くれた漁民(海民)が入り乱れての活動の場だったようです。

ところで、父の蔵書棚から1984年刊の『韓国人が見た日本』という本を見つけたので紹介します。
韓国人が見た日本:変わらない日韓関係

『朝鮮人のみた中世日本』2:前期倭寇の跳梁
『朝鮮人のみた中世日本』1:中世の対外関係

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