朝鮮人のみた中世日本

<朝鮮人のみた中世日本>
図書館で『朝鮮人のみた中世日本』という本を手にしたが・・・・
中国人海商や倭寇の活動が興味深いのでおます。


【朝鮮人のみた中世日本】


関周一著、吉川弘文館、2013年刊

<「BOOK」データベース>より
室町時代、使節や漂流者として日本を訪れた朝鮮の人びと。当時の衣服・髪型から倭寇、食事と酒、稲作の方法まで、彼らが観察した日本の姿を、日本史料で検証して紹介。中世日本の社会・文化を異なる視点から見つめ直す。

<読む前の大使寸評>
中国人海商や倭寇の活動が興味深いのでおます。

rakuten朝鮮人のみた中世日本



p10~13
<中世の対外関係>より
■中世の対外関係の特色
 さて、本論に入っていくことにしたいが、実際に『老松堂日本行録』などの史料を読む上では、ある程度の予備知識が必要である。

 そこで、まず古代から中世(本書では15世紀まで)にかけての対外関係について概観しつつ、特に日朝関係の特徴について確認する。ついで朝鮮王朝の集積した日本情報について説明し、本書で扱う史料や、「朝鮮人のみた中世日本」に関する先行研究を紹介しておきたい。

 まず強調しておきたいことは、中性の日本は、アジア諸地域との間に活発な交流が行われ、特に経済や文化における影響を強く受けた時代であったということである。それは、民間レベルの交流が主体であり、海商や僧侶たちが主要な担い手であった。

■8世紀の外交
 8世紀、律令国家は、唐や新羅・渤海と外交関係を結んでいた。それに呼応して、外国の使節や遣外使節などが滞在する施設が、京(平城京・平安京)・難波(摂津)・大宰府(筑紫)に設置された。

 この施設は「館舎」「客館」と呼ばれたが、9世紀になると、嵯峨朝が弘仁年間(810~824)、殿舎諸門の呼称を唐風化したことにともない、コウロ館と呼ばれるようになる。

 律令国家は、唐との外交を基軸として、原則として20年おきに遣唐使を派遣した。唐からは、政治・経済・文化のさまざまな分野について学び、多くの文物が将来された。
 また新羅使は、博多湾に来航して大宰府が管理しているコウロ館において応対を受けた。また渤海使は、主に日本海沿岸に到着し、平城京や平安京に迎えられた。日本からも遣新羅使、遣渤海使が派遣された。

 このように8世紀は、国家と国家の間の交渉が中心であり、外交に付随して貿易が行われた。

■海商の登場
 しかし日本と新羅の関係が悪化し、新羅使は、779年(宝亀10)を最後に来日が途絶えた。
 9世紀になると、遣唐使の派遣は激減した。実際に派遣したのは、9世紀前半の二回のみである。渤海使は、8世紀同様に頻繁に来日して活発に交渉をしたが、それも919年(延喜19)が最後になる。

 こうして外交使節を派遣することによる国家間の交渉はしだいに下火になるが、それに代わる担い手が、海商であった。大宰府のコウロ館には、唐に拠点を持つ新羅海商や唐の海商が来航し、貿易を行うようになった。平安京を拠点とした律令国家は、唐物使を派遣し、高級舶来品である唐物を優先的に購入した(官司先買権)。

■博多の海商と僧侶
 10世紀、唐や渤海、新羅が相次いで滅んだ。中国では北宋が成立し、江南を中心とする経済の発展がめざましかった。中国人海商たちは、朝鮮半島()や東南アジアなどの中国以外の港に住居や倉庫、店舗を舞えて貿易を行った(住蕃貿易)。

 日本において中国人海商たちを迎え入れる窓口となったのは、北九州の博多である。11世紀の中ごろ、大宰府管理下のコウロ館が廃絶し、その東側に位置する博多が貿易の拠点になった。博多には、中国人海商が住居・倉庫・店舗を舞え、日本人女性を妻とした。海商らの居住地区は、「唐房」とよばれた。

 また商船を経営する有力な海商は、綱首とよばれた。海商たちは、九州の寺社や、京都の貴族や寺社などの権門と結びつき、彼らをパトロンとして資金の提供を受けながら、商船を経営した。

 北宋との貿易では、白磁や青磁などの陶磁器、絹織物や薬などの唐物が輸入された。北宋で大量に鋳造された銅銭(宋銭)が博多にもたらされ、日本列島の各地で使用されるようになる。

 日中間を活発に往来した商船には、僧侶が乗船することが多く、五台山や天台山などの中国の聖地を巡礼している。13世紀半ばからの約100年間は、日本から中国に渡来し参学する僧侶が数多く、また北条氏の招請で中国僧があいついで渡来し、鎌倉や京都の禅宗寺院に住した。

■モンゴル帝国と寺社造営唐船
 13世紀、ユーラシア大陸では、モンゴル(中国では元朝)が台頭し、金や西夏を滅ぼした。六期にわたる侵攻によって高麗を征服し、ついには南宋を滅ぼし、広大な帝国を作り上げた。

 さらに日本に対し二度にわたる攻撃をし(文永蒙古合戦、弘安蒙古合戦)、ヴェトナムやジャワなどにも侵攻した。その一方、モンゴル帝国は陸路には駅伝制を導入し、都の大都と海路を結ぶなど、交通路の整備に腐心し、それにともない活発な交流が行われた。

 モンゴル(元朝)との戦争後、日本と大陸との間の商船の往来は、むしろ活発になり、日中の禅僧も頻繁に往来した。

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