内田先生かく語りき(その24)

<内田先生かく語りき(その24)>
「内田樹の研究室」の内田先生が日々つづる言葉のなかで、自分にヒットするお言葉をホームページに残しておきます。
内田

最近は池田香代子さんや、関さんや、雨宮さんなどの言葉も取り入れています。
(池田香代子さんは☆で、関さんは△で、雨宮さんは○で、池田信夫さんは▲、高野さんは■で、金子先生は★、田原さんは#、湯浅さんは〇、印鑰さんは@、櫻井さんは*、西加奈子さんは♪で区別します)

・書評・食いつめものブルース 山田泰司
・書評・白井聡「武器としての「資本論」
・『街場の親子論』のためのまえがき
・パンデミックをめぐるインタビュー
・ホ・ヨンソン『海女たち』書評
・2020年度寺子屋ゼミ受講要項
・『山本太郎から見える日本』から
・『人口減社会の未来学』から
・「サル化する世界」についてのインタビュー
・映画『Workers被災地に起つ』神戸・元町映画館でのアフタートーク
・週刊金曜日インタビュー
・桜を見る会再論
・『Give democracy a chance』2
・『Give democracy a chance』1
・沈黙する知性
・China Scare
・[週刊ポスト」問題について
・『低移民率を誇る「トランピアンの極楽」日本の瀕死』
・『ネット右翼とは何か』書評
・『最終講義』韓国語版あとがき
・『「そのうちなんとかなるだろう」あとがき』
・『参院選にあたって』
・『廃仏毀釈について』
・『論理は跳躍する』
・『「おじさん」的思考』韓国語版序文
・『市民講座』韓国語版のための序文
・空虚感を抱えたイエスマン
・大阪万博という幻想
・外国語学習について
・大学院の変容・貧乏シフト
・『知日』明治維新特集のアンケートへの回答
・カジノについて
・中国の若者たちよ、マルクスを読もう
・『街場の憂国論』文庫版のためのあとがき
・直言3月号「韓国の教育と日本のメディア」
・人口減社会に向けて
・時間意識と知性
・Madness of the King
・吉本隆明1967
・大学教育は生き延びられるのか?
・こちらは「サンデー毎日」没原稿
・奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り
・米朝戦争のあと(2件)
・気まずい共存について

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内田先生かく語りき8目次

(目次全文はここ)

(その24):『書評・食いつめものブルース 山田泰司』を追記



2020/06/30書評・食いつめものブルース 山田泰司より
 本についての紹介文を先に読んでいたので、おそらく撮影場所は上海で、写っているのは田舎から上海に出稼ぎに出てきて、「3K」仕事をしている農民工なのだろうということまでは想像がついた。背景に高層ビルを、近景に陋屋と廃品回収のリヤカーを配して社会的格差を図像化するというのはよくある構図だ。けれども、その写真にはそんな予定調和を突き崩す「何か」があった。それはその廃品回収業者の男性がたたえている独特の表情であった。

 本文を読み進むと、それがゼンカイさんという河南省から上海に出て来た出稼ぎ労働者とその愛犬の写真だとわかった。今、世界で最もバブリーで超近代的な都市の片隅で、豪奢なシティライフとはどう見ても無縁の暮らしをしているはずの廃品回収業者の表情の奇妙な明るさに私は違和感を覚えたのである。

 私たちは世界を単純な二項対立で理解したがる。都市と農村、富裕層と貧困層、強権的な政府と反抗的な市民、希望と絶望・・・現代中国社会を観察する場合でも、私たちはそのようなシンプルな二項対立を当てはめようとする。私たちの断片的な知識に基づいて想像するならば、農民工とは社会主義国中国には原理的には存在するはずのない無権利状態のプロレタリアートであり、そうである以上、彼らの表情は暗く、悲しみと絶望と階級的な怒りに領されていなければならないはずである。けれども、本文を読み進むと、私たちは彼らが特に暗くもないし、絶望してもいないし、反権力的な怒りに駆られてもいないということを教えられて混乱するのである。

 この本が描いているのはたしかに現代中国の階層格差と社会的なアンフェアである。けれども、著者はそれを「告発」しているわけではない。告発するとしたら、その資格があるのは差別と収奪の被害者である当の農民工たちでなければならない。でも、彼らは収入が減ったときには「愚痴」はこぼすけれど、それが不正な社会システムに対する「怒り」にまで昇華することはない。どうすればもっと実入りのよい仕事に就けるのかという経済的要請があまりに切迫したものなので、悲しみや怒りのような人間的感情を差しはさむ余裕がないのかも知れない。

 悲しんだり、怒ったりすることで飯が食えるなら、そういう感情を持ってもいいが、そんな感情を抱いても腹の足しにはならないなら、感情の出費を節約する。そういうのがあるいは農民工のリアリズムなのかも知れない。
 著者がはじめて農民工という歴史的存在を目撃したのは1980年代末のことである。広州や北京や上海のような大都市のターミナル駅の駅前広場の風景を著者はこんなふうに回想している。

「いつ通りかかっても、広場はそこに座り込む農工民たちで埋め尽くされていた。彼らの大半は仕事の当てもなく、ただとりあえず都会に出てくる。しかし、宿に泊まれるだけのカネはない。(...)だから農民工たちは仕事が見つかるまで、屋根もなく吹きさらしで冷たい石が敷き詰められた駅前広場で、抱えてきたずだ袋を枕にして何日でも寝泊りしていた。そして、広場に寝転がったり座り込んだりしているその場にいる全員がまるで打ち合わせでもしたかのように、当時流行り始めていたセットアップのスーツを着ていた。そして彼らはそのスーツ姿のまま工事現場で鶴嘴を担ぎ、スコップを地面に突き刺していた。当然、スーツはみなよれよれで薄汚れ、破れかけているものも少なくなかった。」(251-2頁)

 これが私にとっては本書中で最も印象的だった。現金収入を求めて、何の当てもなく大都会に出てきて、とりあえず駅前広場に野宿する人々の姿までなら私にも想像ができる。けれども、彼らが申し合わせたように一張羅のスーツを着込んでいるという現実は想像を絶しており、その姿のまま工事現場で働いているという現実はさらに想像を絶している。
 なぜ労働用の「汚れてもいい服」を用意してこなかったのかという疑問が浮かんだこと自体、私がいかに中国の農民たちの現実を知らないのかを暴露している(「パンがなければお菓子を食べればいいのに」と言ったというマリー・アントワネットの無知を私は笑うことができない)。スーツを着たホームレス労働者という矛盾した外見は「田舎から都会に出てきた彼らの張り詰めた気持ち」と「そのスーツしか着るものがほかに無い」という絶望的な貧しさを同時に表現していたのである。

 こういう場面はその場にいた者しか記憶することもないし、回想することもできない。その点では、これは「農民工とは何か」についてのまことに貴重な証言と言うべきだろう。著者はそのときの農民工の姿を通じて、中国人とは何かについての一つの深い理解を得る。
「スーツ、無表情、無言、地べたに座り込み寝転んでいる姿のすべてから彼らは、生きるためにならこだわりなく何でもする、言い換えれば、ここにこうしているしかオレたちに生きる術はないんだという気を発していた。」(252頁)

 著者はそのような「気を発する」人々を上海はじめ中国各地で取材する。けれども、これを「取材」というふうに読んでいいのかどうか、実は私にもよくわからない。一つにはそれが同一人物について長期にわたるものであるため(長いものは10年を超える)。もう一つは、しばしばインタビュイーとの関係が取材者と取材対象という関係を超えて個人的な交際になっているためである。

 これはどちらも現在の日本のジャーナリズムではほとんど見ることのできない取材方法である。読者によっては、対象との距離感が近すぎる、客観性に欠けると言う人がいるかも知れない。けれども、私はこの例外的に「間合いの近い」取材方法を成り立たせるために著者が費やした時間と労力を多とする。長い時間をかけて、息づかいが感じられるほど取材対象の間近に迫るというスタイルは現代ジャーナリズムが失いかけているものである。このような泥臭い、けれども手堅いスタイルはジャーナリズムが決して手離してはならないものだと私は思う。

 著者が現代中国の市民生活についてさらに広い範囲で取材を続けて、中国の実相を明らかにしてくれることを期待している。





2020/06/12書評・白井聡「武器としての「資本論」(東洋経済新報社刊)より
 ここに白井聡さんの『武器としての「資本論」』が出てきた。一読、あまりの面白さに、「そうか、こういうふうに書けばいいのか!」と膝を打ったのであった。そして、いまは自分の『資本論』論が書きたくて、うずうずしてきた。コロナ禍でしばらく暇が続くので、書き始められそうである。届かない原稿を待ち続けていた編集者のために白井さんは陰徳を積まれたことになる。
 私が膝を打った「なるほど! こういうふうに書けばいいのか!」の「こういうふう」とは「どういうふう」のことなのか。それについて書きたいと思う。

 白井さんのこの本は「入門書」である。「『資本論』の偉大さがストレートに読者に伝わる本を書きたい」という白井さんの思いを託した入門書である。マルクスについて基礎的な知識がない若者を読者に想定している。そういう人たちにマルクスの「真髄」をいきなり呑み込ませようという大胆きわまりないものである。そして、それに成功している。 たいした力業と言わなければならない。

「入門書」の良否は、想定読者の知性をどれくらいのレベルに設定するかという初期設定でほぼ決まると私は思う。
 凡庸な専門家は「一般読者を対象に」と言われると、いきなり「啓蒙」というスタンスを取る。想定読者の知性をかなり低めに設定するのである。そうすることが「リーダー・フレンドリー」だと思っているからである。そして、たいていは失敗する。

「啓蒙」は「書き手は博識であり、読者は無知である」という「知の非対称性」を前提にする。そういう構えはコミュニケーションを阻害することはあっても、活性化する役には立たない。「啓蒙」的態度をとる人は、自分が読者を威圧したり、屈辱感を与えたりしている可能性をあまり気にかけない。書き手が読者に対して十分な敬意を示さない場合、読者がそれを敏感に感じ取り、心を閉ざすということを知らない(人は自分が相手から愛されているかどうかはよくわからないが、自分が相手から敬意を払われているかどうかは、すぐわかるのである)。

 でも、書き手がほんとうに読者に伝えたいことは、ほとんどの場合、読者に「心を開いて」もらわないと達成できない。読者たちが、これまでの自分のものの考え方をいったん「かっこに入れて」、しばらくの間だけ自分の手持ちの「物差し」をあてがうことを自制して、書き手の言い分を「丸呑み」にしてくれないと、ほんとうに伝えたいことは伝わらない。だから、ほんとうにたいせつなのは、読者に「心を開いてもらうこと」だけなのである。

「コミュニケーションの回路を立ち上げる」という遂行的な営みに成功しない限り、その回路を行き来するコンテンツの理非や真偽はそもそも論じることさえできないのである。一人の読者が、一冊の本を読みながら、今読んでいる箇所を理解するためには、自分自身の考え方感じ方を一時的に「かっこに入れる」「棚上げする」必要があると感じたならば、その本はコミュニケーションの回路の立ち上げに成功したと言うことができる。私はそう思う。




(以降、全文は内田先生かく語りき(その20)による)

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