『シャガール』1

<『シャガール』1>
図書館で『シャガール』という本を、手にしたのです。
シャガールといえば、ディアスポラのユダヤ人という側面があるわけで興味をひいたののです。


【シャガール】


モニカ ボーム=デュシェン著、岩波書店、2001年刊

<「BOOK」データベース>より
本書では、広い範囲の媒体―油彩画や版画からステンドグラスやタピスリーのデザインにいたるまで―と画家の創造性に広く刺激を与えた芸術的、宗教的、社会的、経済的、政治的要因を見わたしながらの、鍵となる作品の詳細な検討が、伝記的な細部に織り交ぜられている。シャガールの文化的情況と生涯と芸術とのきわめて興味深い関係を論証する。

<読む前の大使寸評>
シャガールといえば、ディアスポラのユダヤ人という側面があるわけで興味をひいたののです。

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≪エッフェル塔の新郎新婦≫


「5 不安な10年間」で1930-41年を、見てみましょう。
p209~210
<5 不安な10年間>
 生涯でただ一度、シャガールは新しい10年間を、移動せずに同じ場所で過すことになった。とはいえ、時代が進むにつれて、画家の作品の多くに、はっきりと目立つ雰囲気の変化が見られるようになる。

≪リラのなかの恋人たち≫や≪若い軽業師≫、あるいはさらに1934年頃から47年の≪花束と飛ぶ恋人たち≫や1938年から39年の≪エッフェル塔の新郎新婦≫のような作品は、画家が引きつづき恋人や花や軽業師といった多くのおだやかなイメージを制作していたことを物語っているが、1930年代でもっとも忘れがたく独特であるのは、疑いなく深い不安と不吉な予兆の感覚から生れた数々の作品だろう。

 ヴォラールがシャガールに正式に旧約聖書の挿絵を注文したのは、1950年のことだった。この計画は、多くの点で画家の若い頃の関心事の理にかなった延長にあるものだったが、それ自体、意識にはっきりとした変化をもたらす助けになった。

 同年、シャガールはパリを訪れていたテル・アヴィブ市長メイア・ディゼンゴフに紹介され、急速に発展しているユダヤの町の新しい美術館という市長の野心的計画にすぐに乗り気になって、この計画を進めるためのパリの委員会の一員となることを承知したほどだった。

 のちにシャガール自身は、パレスティナをはじめて訪れる気になったのはヴォラールからの注文によるところが大きかった、と語ってはいるものの、このように、ほかにも理由はあった。とりわけ、ディゼンゴフの考えに対する画家の返答に明らかなように、芽を出したばかりでいままさにつくりあげられつつあるユダヤ国家への興味と、そこにおける文化的発展に参加したいという願いは強かった。

 熱心なシオニストでもなければ宗教的に敬虔なユダヤ人というわけでもなかったが、シャガールはこの「新しく旧い国」はたしかに自分を呼んでいる、と感じたのだった。

 このようないきさつから、1931年初頭、シャガールとその家族はディゼンゴフの招きにより、パレスティナに向けて出帆した。1930年代にシャガールが行った外国旅行のうちで、これがもっとも重要な旅であったことは疑念の余地がない。

 1920年代の旅のほとんどがフランス国内の旅行であったとは暗示的だが、これは画家の経済的制約を示すばかりではなく、自分の帰化した国への好奇心もあっただろう。1930年代に入ると、生活に余裕ができるとともにあらたな焦燥感が、シャガールを異郷の地へと駆りたてたのだった。


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