内田先生かく語りき(その23)

<内田先生かく語りき(その23)>
「内田樹の研究室」の内田先生が日々つづる言葉のなかで、自分にヒットするお言葉をホームページに残しておきます。
内田

最近は池田香代子さんや、関さんや、雨宮さんなどの言葉も取り入れています。
(池田香代子さんは☆で、関さんは△で、雨宮さんは○で、池田信夫さんは▲、高野さんは■で、金子先生は★、田原さんは#、湯浅さんは〇、印鑰さんは@、櫻井さんは*、西加奈子さんは♪で区別します)

・書評・白井聡「武器としての「資本論」
・『街場の親子論』のためのまえがき
・パンデミックをめぐるインタビュー
・ホ・ヨンソン『海女たち』書評
・2020年度寺子屋ゼミ受講要項
・『山本太郎から見える日本』から
・『人口減社会の未来学』から
・「サル化する世界」についてのインタビュー
・映画『Workers被災地に起つ』神戸・元町映画館でのアフタートーク
・週刊金曜日インタビュー
・桜を見る会再論
・『Give democracy a chance』2
・『Give democracy a chance』1
・沈黙する知性
・China Scare
・[週刊ポスト」問題について
・『低移民率を誇る「トランピアンの極楽」日本の瀕死』
・『ネット右翼とは何か』書評
・『最終講義』韓国語版あとがき
・『「そのうちなんとかなるだろう」あとがき』
・『参院選にあたって』
・『廃仏毀釈について』
・『論理は跳躍する』
・『「おじさん」的思考』韓国語版序文
・『市民講座』韓国語版のための序文
・空虚感を抱えたイエスマン
・大阪万博という幻想
・外国語学習について
・大学院の変容・貧乏シフト
・『知日』明治維新特集のアンケートへの回答
・カジノについて
・中国の若者たちよ、マルクスを読もう
・『街場の憂国論』文庫版のためのあとがき
・直言3月号「韓国の教育と日本のメディア」
・人口減社会に向けて
・時間意識と知性
・Madness of the King
・吉本隆明1967
・大学教育は生き延びられるのか?
・こちらは「サンデー毎日」没原稿
・奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り
・米朝戦争のあと(2件)
・気まずい共存について

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内田先生かく語りき8目次

(目次全文はここ)

(その23):『書評・白井聡「武器としての「資本論」』を追記



2020/06/12書評・白井聡「武器としての「資本論」(東洋経済新報社刊)より
 ここに白井聡さんの『武器としての「資本論」』が出てきた。一読、あまりの面白さに、「そうか、こういうふうに書けばいいのか!」と膝を打ったのであった。そして、いまは自分の『資本論』論が書きたくて、うずうずしてきた。コロナ禍でしばらく暇が続くので、書き始められそうである。届かない原稿を待ち続けていた編集者のために白井さんは陰徳を積まれたことになる。
 私が膝を打った「なるほど! こういうふうに書けばいいのか!」の「こういうふう」とは「どういうふう」のことなのか。それについて書きたいと思う。

 白井さんのこの本は「入門書」である。「『資本論』の偉大さがストレートに読者に伝わる本を書きたい」という白井さんの思いを託した入門書である。マルクスについて基礎的な知識がない若者を読者に想定している。そういう人たちにマルクスの「真髄」をいきなり呑み込ませようという大胆きわまりないものである。そして、それに成功している。 たいした力業と言わなければならない。

「入門書」の良否は、想定読者の知性をどれくらいのレベルに設定するかという初期設定でほぼ決まると私は思う。
 凡庸な専門家は「一般読者を対象に」と言われると、いきなり「啓蒙」というスタンスを取る。想定読者の知性をかなり低めに設定するのである。そうすることが「リーダー・フレンドリー」だと思っているからである。そして、たいていは失敗する。

「啓蒙」は「書き手は博識であり、読者は無知である」という「知の非対称性」を前提にする。そういう構えはコミュニケーションを阻害することはあっても、活性化する役には立たない。「啓蒙」的態度をとる人は、自分が読者を威圧したり、屈辱感を与えたりしている可能性をあまり気にかけない。書き手が読者に対して十分な敬意を示さない場合、読者がそれを敏感に感じ取り、心を閉ざすということを知らない(人は自分が相手から愛されているかどうかはよくわからないが、自分が相手から敬意を払われているかどうかは、すぐわかるのである)。

 でも、書き手がほんとうに読者に伝えたいことは、ほとんどの場合、読者に「心を開いて」もらわないと達成できない。読者たちが、これまでの自分のものの考え方をいったん「かっこに入れて」、しばらくの間だけ自分の手持ちの「物差し」をあてがうことを自制して、書き手の言い分を「丸呑み」にしてくれないと、ほんとうに伝えたいことは伝わらない。だから、ほんとうにたいせつなのは、読者に「心を開いてもらうこと」だけなのである。

「コミュニケーションの回路を立ち上げる」という遂行的な営みに成功しない限り、その回路を行き来するコンテンツの理非や真偽はそもそも論じることさえできないのである。一人の読者が、一冊の本を読みながら、今読んでいる箇所を理解するためには、自分自身の考え方感じ方を一時的に「かっこに入れる」「棚上げする」必要があると感じたならば、その本はコミュニケーションの回路の立ち上げに成功したと言うことができる。私はそう思う。





2020-06-03街場の親子論』のためのまえがきより
 本書は僕と娘の内田るんとの往復書簡集です。
 どうしてこんな本を出すことになったのかについては、本文の中に書いてありますので、経緯についてはそちらをご覧ください。
 ここでは「まえがき」として、もう少し一般的なこと、親子であることのむずかしさについて思うところを書いてみたいと思います。
(中略)

 僕は若い人たちが他人とのコミュニケーションを負担に感じるようになったのは、共感圧力が強すぎるせいじゃないかと思っています。
 今の日本社会では、過剰なほどに共感が求められている。僕はそんな気がするんです。

 とりわけ学校で共感圧力が強い。そう感じます。喜ぶにしろ、悲しむにしろ、面白がるにしろ、冷笑するにせよ、とにかく周りとの共感が過剰に求められる。
 僕は女子大の教師だったので、ある時期から気になったのですけれど、どんな話題についても「そう!そう!そう!」とはげしく頷いて、ぴょんぴょん跳びはねて、ハイタッチして、というような「コミュニケーションできてる感」をアピールする学生が増えてきました。そういうオーバーアクションが無言のうちに全員に強制されている・・・そんな印象を受けました。

 何もそんなに共感できていることを誇示しなくてもいいのに、と思ったのです。だいたい、それ嘘だし。
 ふつう他者との間で100%の理解と共感が成立することなんかありません。あり得ないことであるにもかかわらず、それが成立しているようなふりをしている。「そんな無理して、つらくないですか?」と横で見ていて思いました。

 どんな親しい間でだって、共感できることもあるし、できないこともある。理解できることもあるし、できないこともある。それが当たり前だと思います。長くつきあってきて、腹の底まで知っていると思っていた人のまったく知らない内面を覗き見て心が冷えたとか、何を考えているのかさっぱり分からない人だったけれど、一緒に旅をしたらずいぶん気楽であったとか・・・そういう「まだら模様」があると思うんですよ。

 歌謡曲の歌詞だと、心を許していた配偶者や恋人の背信や嘘に「心が冷えた」方面についての経験が選好されるようですけれど(ユーミンの「真珠のピアス」とか)、その反対のことだってあると思うんです。さっぱり気心が知れないと思っていた人と一緒に過ごした時間が、あとから回想すると、なんだかずいぶん雅味あるものだった・・・というようなことだってあると思うんです(漱石の『虞美人草』とか『二百十日』とかって、「そういう話」ですよ)。

 僕はどちらかと言うと、この「理解も共感もできない遠い人と過ごした時間があとから懐かしく思い出される」というタイプの人間関係が好きなんです。そして、できたらそれをコミュニケーションのデフォルトに採用したらいかがかと思うんです。そのことをこの場を借りてご提案させて頂きたい。




(以降、全文は内田先生かく語りき(その20)による)

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